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海外旅行「ギリシアの春j
2005年4月1日〜11日
3組 水田 洋
1
12月クラブ海外旅行同好会というのは、田中仁栄がはじめて、20何回続いただろうか。
仁栄なきあとをついだ金原昌夫も逝き、ただひとり残った鈴木貞夫も、ついにギヴ・アップ。
こうなると、スコットランド旅行の縁で途中参加したぼくの出番ではない。
ところが、今年は準会員の強いご要望があり、
クラスメート下田友吉の令孫まで参加ということになったのが、
このギリシア旅行である。
下田がぼくに「おまえ、おとなしくしていれば母校にもどれるのに」と、くりかえしいったことは、忘れられない。あたまがあがらない、クラスの世話役だった。
旅行のルートは、往復ともにウィーンのりかえとして、
アテネからペロボネソス半島のスパルタへいって、
そこから北部の都市テサロニキに達するということにした。
ウィーンでは最後の夜に国立オペラで、,ヴェルディのファルスタッフを楽しむことができたのだが、
ぼくはヴェルディならアイーダと思いこんでいたので、
パスして失敗した。
ギリシアの旅は、もちろんアテネのアクロポリスからはじまる。
ウィ一ンから差1時間ということもさいわいして、
到着してすぐのぼることができた。
保存のための工事と人ごみとで、昔の雰囲気はなくなったが、
一度は来るべきところである。
ぼくは日本人ガイドとギリシアの市民生活の話をしていて、
徴兵制度があるときいたので、
イラクに派兵しているかとたずねた。
答は、派兵していないからこそ,無事にオリンピックがおこなわれたのだ、ということだった。
翌日はまず、
本土とぺロボネソス半島をつなぐコリント地峡へ。
地峡を切断した運河を見学しているころ、
エール・フランスできた麦倉夫人がタクシーでわれわれを追跡中という連絡があり、まもなく合流。
コリントとミケネの古代遺跡を見て、
辿りついたのはナフプリオンという海に面したリゾート地で、
じつは遺跡の博物館が冬期開館時間を守っていたために、追いたてられて早くついたということである。
しかしナフプリオンの岩をくりぬいたホテルはよかった。
3日目は、
ミストラの中世遺跡をみてスパルタへ南下し、
そこから北転してオリンピアにむかった。
ミストラは中世のフィレンツェとよばれた芸術と絹の都だそうだが、
ぼくはここでビザンツの出店をみるつもりはなかった。
アテネとともに古代ギリシアを代表するスパルタには、
レオニダス像のほかには何もないことはわかっていたが、
とにかくその土地をふみたかったのである。
ここからオリンピアへは、ぼくは山側の道をとるように指示した。
時間がかかるからと、ガイドは不満そうだったが、
このアルカディア横断は好評だった。
古来素朴な田園の理想郷とされている高原地帯で、現代でもあまりかわってないようだった。
オリンピア、デルフィ、メテオラほ観光名所だから、よく整備されていたし、
とくにデルフイは菜の花がさかりだった。
ぼくのねらいはそれよりも、デルフイとメテオラの中間に、テルモビラエの遺跡を訪ねることだった。
古代とは地形がすっかりかわって、
レオニダスのひきいる300のスパルタ軍が、
200万のベルシア軍を迎えうって全滅したところとは到底おもえない。
ヘロドトスが伝える墓碑銘は
「とつ国びとよ、行きてラケダェモンの人びとに伝えよ、おん身らの法にしたがい、われらここに死すと」
(ラケダェモンはスパルタの別名)。
ヘロドトスは予科で5組の英語の教科書だった。
テルモビラエの箇所までは進まなかっただろうが、
ぼくは菅谷寛一がこの本を「ヘロ」とよんでいたことを思い出す。
ギリシア最後の夜は、
テサロニキの海に面したアリストテレス広場で、学年末の学生たちの歌声のなかにくれていった。
(参加者)11名、
(1組) 宇野良子、麦倉則子、 (2組) 折下慶子、光永海紀江、村山ひろ子、 (3組) 下田冬子、下田苑子
戸辺和子、水田 洋、 (6組)松田道子、 (ゲスト)柴田守一 ― 名古屋大学の水田洋ゼミ
松田道子
カリメーラ(挨拶)、ヤーサス(すべての御挨拶。乾杯)
ヨーロツパの東部 ―バルカン半島の先端で、
日本の約3分の1の小国なのに、
この地の文化が世界中に及ぼした影響は計り知れない程大きい、と頭では解っていても、
実際に目の当りにし、
ギリシア神話の神々の世界を長編叙事詩にうたった「オデッセイ」を思い浮かべて、
神話と歴史、古代と現代とが溶け合っているのをちょっとのぞき見て参りました。
水田先生はじめ皆様本当にエフカリスト(ありがとう)。
村山ひろ子
最初から最後まで恵まれた天候の中で、
美しい花々をギリシアならではの神に捧げる大地の賛美を思わせられました。
最初に着いたアテネ市内の両側の並木が桃色の花周防(はなずおう)、
不思議に思い名前を尋ねたところ「ユダの木」と云います、とのこと、
イエスを裏切って首を吊ったのがこの木とか。
ギリシアの人々はこのことをどう考えとらえているのか?
デルフイをはじめ咲乱れていた菜の花。
メテオラの少しでも神に近くと、高い、高い山の上に建てられた修道院等々。
どれもこれも印象深いギリシアの11日間の旅でした。
折下慶子
春4月、花々の咲き乱れるギリシア11日間の旅でした。
菜の花、ハナズオヴ、アネモネ、芥子、オリーブの木。
8日目、
メテオラ(北部)そびえる奇岩群の上に建つ修道院。
メテオラは空中車に吊り下げられたという意味で、
9世紀、
バルカン半島の戦乱から逃れるためにやって来た修道僧により神々との交信に選ばれたところです。
修道士の生活は過酷で試練の旅であったかと胸をうたれました。
オリンピアの競技場見学、スタートラインに立ってカメラにおさめ、
下田様のお孫さん2人は192mを完走されました。
最終日、
9日目ウィーンでオペラ座。皆様おめかしして出席。
演目はべルディの”フォルスタッフ”。思い出深い最後の夜になりました〕
麦倉則子
蘇芳(ずおう)の赤紫の花、黄色いっぱいの菜の花、どこもかしこもオリ一ブの木、
そして、ところどころに咲いていた藤の花、また、白い線のはっきりしたクローパ
これ等の植物も遺跡と間じ年月を過ごして来たのだと、
押し花を見ながらギリシアの春を思い出しております。
私はカランバカで、オリーブの木で作った素朴な壁掛けの鏡を求めました。
水田先生とのギリシアの春を思い出しながら。