1組 天谷 章雄 |
「碁仇きは憎さも憎し、なつかしし」という川柳があるが真に言い得て妙である。落語の「笠碁」にも出てくるように勝負事の好きな中は、こっぴどくやられて、もうあんな奴とは二度とやるまいと誓っても、あくる日になるとまたぞろ相手がなつかしくなるものである。 勝負事は知らず知らずのうちにその人の性格が出てくる。強気の人、弱気の人、慎重な人、なげやりの人、けんか早い人、温厚な人と表面とはうってかわってこの人がと思はれる面が出てくるので却々面白い。一局の碁を打ち将棋を指すことによって初対面の人でも旧知の仲になることがよくある。 碁は局部で失敗しても盤面が広いので捲返しがきくが、将棋は一手の失敗によって全局を失うことが多い。併し失敗したからといって投げてしまうことなく辛抱して最善の手をつくせば自ら道は開かれるものである。一局のうち二回乃至三回全般を見渡すことが出来るようになると腕が上がったとみてよい。局部的にいくらよくても全体とのバランスが必要だからである。 一局、一局が一つの人生であり、又会杜経営にもつながると思う。将棋の升田八段はよく碁将棋のわかる人でなければ会社経営はまかせられぬと迄極言しているが、これがプロの人の考え方であろう。 プロの人達の一手一手の指す手は中々きびしい。それは会社経営にもむすびつく。社長(王将)が幹部(飛車・角)を駆使し、中堅幹部(金・銀)や下級管理職(桂・香)を動かし、一般杜員(歩兵)をうまく稼動させて一局の勝負を形成させる。一手もゆるがせに出来たい。故菊地寛は「人生は一局の将棋なり、指し直す能わず」と云ったのは名言であると思う。我々アマチュアは趣味でやっているので、まあこの位の処へやっておこうかという甘い手をやるので中々上達(成功)しない。 碁・将棋等勝負事をやるもう一つの利点は頭の回転を働かせることであろう。有吉佐和子の「恍惚の人」にも頭の回転を常に働かせていれば恍惚の人にはならず若さは失はれないというようなことが書かれているが、まさにその通りで私自身も定年で家にひきこもっているより会杜勤めをしていれば人にも接し此等をやるチャンスも多く、ふけこむことはないと考えたからである。 最近小学校や中学校でクラブ活動で碁や将棋を採り入れているのは非常によいことだと思う。まづマナーがよくなる。計数的感覚の助長にも役立つからだ。 私自身将棋をおぼえたのは小学校一年の頃で、丁度家が隅田川の帝大と慶応のボートの艇庫の近くにあったので我家の二階が選手達の合宿所に貸していたこともあり、選手達から教わったのが始まりで、もうかれこれ五十五年になる。碁の方は商大予科に入り夏休がすぎた寮でクラスの河村友三君に手ほどきをうけたものだが、将棋から碁に入ったせいか「けんか碁」が得意であり、温厚な河村君の碁とは対照的であった。この恩師には悪いが、半年間の寮生活中に互先になったように記憶している。 勝負事を語るのに麻雀のことにもふれなくては片手落であろう。 麻雀はうまい人と強い人とがある。両方かね備えていれば鬼に金棒だが、うまいといわれる人でも意外に勝負弱い人がいるのはその人の性格が影響しているのであろう。 併し最近のインフレルールでは腕よりつき(運)が大いに左右する。同じメンバーで何回かやれば実力の差は出てくるが、一回丈では実力よりその日のつきが優先する。その日のつき次第で大勝することがあるので麻雀はすたれないのだと思う。麻雀は碁・将棋と異なりハンデキャップがない為つき麻雀に移行してゆくのは無理ないことと思われるが、最近のようにつきを重視するバクチ的ルールでは将来麻雀のすたれる原因となりかねない。戦前は運七技三といっていたが最近のは運が九五%位であろう。 私自身日頃食事は少なめなのだが、勝負事をやっていると心身がやく動するのか食も進み、以前は趣味と実益をかね健康法の一つとしていたが、最近は実益の方が年と共におとろえて来たので、「鬼」から「仏様」にかわりつつある。併し根が好きなので相手があれば毎日でも卓をかこみたいと思っている。同好の志のおさそいをまっています。 |
卒業25周年記念アルバムより |