(その一) 上田先生のこと
あれは確か我々が商大予科へ入学した年、昭和十一年の晩春のことだと記憶して居るが、そうだとすると四十五年も前のことだが何故か鮮やかに今でも思い出されるのが不思議だ。
曇り空の朝だったと思うが、発車間際の国分寺駅多摩湖線のボロ電車に、ユックリした足どりで小柄な老紳士が入って来た。一同起立だ。上田貞次郎先生である。先生は既に電車の隅の方に座って居た長身で雨傘風ステッキに両手を置いた中年外人紳士を認めると、隣に座を占めて朝の挨拶を交わした。英人教師タイスリッヂ先生である。二言三言おきまりの挨拶のあと、私の耳に聞えて来た上田先生の言葉は、I
hear your home is very far・・・云々であった。上田先生はタイスリッヂ先生が湘南辻堂駅から通って来られるのを御承知なんだなと思った。辻堂から小平迄は乗り継ぎを二度もせねばならぬ、遠い所だ。私は上田先生の声音に遠い異国日本に来て然も毎週数日の不便な遠隔通勤をして居られる外人教師に対する温い思いやり、いたわりの言葉を感じたのであった。だからこそ此の何でもない言葉を、今でも鮮やかに思い出すことが出来るのだ。そのあとの会話がどんなものであったかは全く覚えて居ないが、予科前駅から校舎迄のあのひどい凸凹ジャリ路を、長身と短身の異色組合せの御二人が、生徒達の最後尾をゆっくり歩まれて行かれたのを一二度振返って見た。先生の英語は所謂流暢なイングリッシュではなく、強いて云へば荘重た英語で、日本語の先生独特の話し振りと全く同じマイペース調のものであった。あのボツボツとゆっくりしゃべられる先生の思ひやり溢れる温い声音を、今でも忘れることが出来ない。 上田先生は例の白票問題の余波を静めるために登場した三浦学長を助け十一年二月から大物予科主事(正式には予科主事事務取扱)となり十一月には学長となったから、小平にしばしば(?)来られたのは僅か十ヶ月位の短い期間であった。私が多摩湖電車で御目に掛ったのは此の一度丈である。
上田先生は昭和十五年五月急性腹膜炎のため慶応病院でなくなられた。六十二歳であるから今の我々の年齢であるが、拾年は早かったように思われてならない。
(その二) タイスリツヂ先生のこと
スコットランド生れ(?)のタイスリッヂ先生に関しては今一つの思い出がある。
先生のニックネームはMr.メランコリー。無口で憂愁を秘めた哲人のようた顔付で笑顔もめったに見せず、冗談も殆んど云はず、此の点後に着任した米人教師スピンクス師とは対照的な静かた先生でした。此のおとなしい先生が一度丈烈火の如く怒ったことがあった。それは授業中或る生徒が岩波文庫のかくし読みをして居たのを発見された時である。階段教室や其他の合同大教室の場合等は絶好のチャンスとしてかくし読みは多くの者が経験して居ると思うが普通のクラス教室で之をやる者は先づ無かったと思う。大胆にも之をやった猛者が、平素は勿論今でも真面目な顔をして居る我が前田壽夫君であった。
二年の時だったと思うが、午後の或る時間突然タイスリッヂ先生の怒声が聞え、前田君は起立を命ぜられ、かくし本をかかげるよう云われた。前田君は男らしく本を高く示した。次は"Get Away"の大声、真赤にたったT先生、無言のまま、教室を出て行った前田君、此のあとどうなるかと一同固唾をのみ、すごい緊張が続いたが、あとは何事も無かったような平静な授業で終った。問題は次の週のT先生の時間だと思ったが、何時もの如く一人宛、Mr.○○ Mr.△△と出席を取り、Mr.前田と云った丈で何事もなく無事に過ぎて一同ホットしたものである。四十年以上の超時効事件であるから此の素っ破抜き(?)も勘弁して貰えると思うが、前田君とは親しかった仲なので何を読んで居たのか聞いたようでもあり、聞かなかったようでもあり覚えて居ない。
(その三) 黒川君のこと
次のエピソードも英語の時間のことである。
当時の予科は語学の時間が多く先生方も多彩で夫々の先生方にまつわる話題も豊富なのは当然だが、何と云っても英語は名物教授が新里。渡部。牧。森本。古瀬。西川。等ズラリと並び色々となつかしい名場面も多いわけだが、思い出に残る圧巻が西川正身先生講読ハーディ短編集に於ける黒川忠嘉君の名訳の一場面である。黒川君は卒業後間もなく戦死して了ったが、学生時代は水泳部の元気者で明朗な人柄はクラス内外の人気者でもあった。当時岩波文庫に丈ハーディーの短編訳集があり、我々は皆下読みの際その訳文を見て当てられた時大誤訳の無きを期して居たのであるが、黒川君はその指名打者の時に勇ましくも文庫本の名訳文そのままに「剃刀あとも青々と云々」そっくり数行を読み上げて了ったので、その大胆さには教室中あっけに取られやがてドット大爆笑の渦とたって了ったのである。(爆笑した者は皆その文庫本を見て来た者であること勿論である。)別に誤訳ではないから真面目な西川先生も流石に一寸苦笑した丈で何も云われず、黒川君はすました顔で着席したが、そのすまし顔を今でも忘れることが出来たい。
西川先生は今では押しも押されもされない堂々たる大家であるが、当時は着任早々の新進教授で我々よりは十四五歳年長の三十台半ばであった。ハーディのものは其後久しく読まないが、時々書店で文庫本の棚等でハーディと云ふ背文字を見ると黒川君のことを思い出すのである。
四十五年前一緒にハーディを読んだ友達四十一名のうち、黒川君を含めて既に十二名が故人となって了った。つい昨日のようにも思われるが矢張り年も人も過ぎて行ったのだ。
(その四) むかしの仲間のこと
木下杢太郎の好きな詩に「むかしの仲間」がある。
むかしの仲間も遠く去れば、
また日ごろ顔あはせねば
知らぬ昔と変りなきはかなさよ。 (なきはかなさよ、に筆者傍点)
春になれば草の雨、
三月桜、四月すかんぽの花のくれなゐ、
また五月には杜若。
花とりどり人ちりぢりの眺め
窓の外の入日雲
只此の詩には傍点(私)の部分に引っかかりがあるのは理屈つぽいかな(?)
何等かの縁で出合い友達となった者には会はぬ昔とは同じでない感情が残って居る筈だ。思い出が残って居る筈だ。鱒二ではないが確かに
花発多風雨 人生足別離
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
会へば何時かはお互に別れねばならぬ時が必ずやって来るが、それならせめて生きて居る間にあの時のこと、あの友のことを懐かしく思い起すゆとりがあっても良いのではなかろうか。「時は過ぎゆく」のか「人が過ぎゆく」のか分らないが思い出は停止して残って居ると思う。
そこでこれは倉垣委員長への提案だが、お別れして了った友の思い出を故人ゆかりの人達(同じクラス同じ部同じゼミ等々)が一文を草して"続波濤"(むかしの仲間)とでも名付け発行したら故人への何よりの供養になり、十二月クラブ全員の記念物となるのではなかろうか。
(尚此の続文集には指名希望の両執筆制を採って重複を妨げずとしたらどうだろう。)
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