東京商科大学を、卒業してから昭和五十六年十二月に満四〇周年を迎える。今さらに、月日の早いのに驚かされる。僕は兵庫県の丹波篠山町の青山藩十万石の藩創立の鳳鳴中学を卒業し一年浪人の上、予科へやっとの思いで、昭和十一年四月入学出来た。父は安田銀行に勤務していて、(富士銀行の前身)三年毎位に勤務地を替ったため、父の出身の中学に入学した訳である。父が福岡より東京本杜へ転勤したために、福岡の修猷館中学より鳳鳴中学へ一年生の半ばで転校した。
九州は明るく海岸の松脂の香り、白砂、赤土の色、はつきりした義侠と人情と打って変り、丹波は山陰、山陽の中間に位置するためか天候は陰欝で一年のうち半分曇天とみぞれ交りの雪であり、盆地の為、学友も閉鎖的で皆一くせねぢ曲った感じのが多く、封建性の伝統が悪くつよく、他人の幸福、業蹟を妬む気風が強く、僕としては、正直な心境をいえば、中学在学中は何一つ快適な生活は送れなかった。放課後体操と云う上級生指導のスパルタ的行事が毎日あり他国よりの転入者は言葉も違う為か徹底して酷い目に遇った。しかし軍隊ではこれが大変に役に立ち今も感謝している。一橋入学も軍人であった叔父がこれからは経済の方が将来性があると云うので一橋をうけた訳で、鳳鳴中学では、陸士、海兵が卒業生の極上で、商科大学等は、変人のゆくところで一辺の値打もなかった。
その為か、予科に入学し、自由、自治の校風、学友は皆明るく責任感つよく優秀な人達許りで、丹波篠山の生活と、夜と昼の違いがあった。僕の人格形成の主な柱は予科の頃、出来たと云って過言ではたい。南寮の同室吉川君、隣室の里見、依光氏、右隣りの大木、鈴木氏、またその隣りの泰地、本宮君等あげれば際限がない。その依光さんから、コミンテルンのロンドン宣言文、マルクスの本を読んでみろと貸し与えられたが、余りに垢づれし汚たかったので、僕は読まずに一ヶ月程して返した。若しあの本が装偵の美しいものであれば僕は先脳されてマルキストに志を寄せていたかもしれぬ。青春とはそんなものである。その項の予科一年は全寮制で大体200人は入寮していた。寮の食堂で夕食後、順番に自己紹介、そして国の民謡、流行歌を披露し、最後は予科会歌、長煙遠く、寮歌が出来てからは、これを歌うのが習はしであった。三年の頃は、離別の悲歌、ひひ散乱、等寮歌が多くなり大いに青春を燃焼させる一助と云うより寮生活の中の中心になった。予科の授業も初めのときは、嘸し恐しいむづかしい先生が多いと思った処が、大半、一橋卒業生の先生が多く兄が弟に対する温情を持っておられ、授業も楽しくいつも僕は背の高い木島君の背陰にかくれて大分助った事を記憶している。
特に太田可夫教授の講議は楽しく、良く寮を分て吉祥寺の先生の自宅へ参上し奥様の手をわずらわせた事もなつかしい思い出であるが、その先生達も大半はなくなられ、鳴呼、青春はかえらぬと断腸の思いがする。
西川教授が、晴れた温い日は、予科校舎の中庭の芝生の上に、車座に皆腹這いになりながらの英文学の読書風景は今だに忘れることが出来ない。西川教授の処へも、ハクスレイ等の御本を借用に憶面もなく押かけたりもした。
古瀬教授のギッシングの講議も古瀬教授がギシギシされる感じがピッタリであった。十六時頃には、授業終了し、寮に帰るのであるが、読書も運動も充分に出来た。何しろ目と鼻の先に予科校舎がある。朝は、始業の鐘が聞えると、教科書、ノートをひっつかみ、寮の窓から、草履のまま飛びおりて走れば、充分教授が着席される迄に自席に坐っていることが出来た。今にして思うと、寮にいることは一つの塾みたいな共学共同生活体をなして一番の理想的教育システムでないかと思う。寮は、南寮、中寮、北寮と三つに分れていたが、夜おそくなれば各自勝手に泊り込んで中には、どの寮にいるのか自分の居住部屋も明らかでない豪のものもいた。食堂、読書室、談話室が完備され、読書室は図書室兼任で新刊また僕達の読みたい本が一杯あった。楽しみの一つであった。また談話室には麻雀、囲碁、将棋、レコード、等があり、都会育ちの学友はそこで一層趣味を磨いたものと推察される。しかし、大体これ等の施設は自治の精神でよく運用され、本の持出し、紛失、娯楽道具の損失も余りなかった。夕食後は各人の自由であるが、上級生のアウフ、クレールング、アゥフヘーベン、シュトルムウント、ドラング等の啓蒙運動もあり、秀才の殻を破って人間としての幅、人間性を持てと云う趣旨のためのストーム、勉強しているとストームに駆り出され、糞勉強は止めろと云わんばかりであった。討論も夜の十二時、いや三時、四時頃まで毎日続いたこともあった。寮生、三年の時は、なつかしの寮の訣別のため、大ストームをやり、全寮の窓硝子をことごとく壊し、一人当り其の頃の金で三十円徴収された。しかし泰地君も含め皆出したが今にして思うと大らかな良き時代であったとつくづく思う。僕は二年生の時、下宿に出たが三年生になると寮が恋しくまた入寮願いを出して南寮の一番隅みの一人部屋の住人になった。その時の全寮委員長が吉川君、論客の翠川、新宮、泰地、金井、橋本、韮沢、その他大勢いたが名前列挙は省略させて頂きたい。
間宮君以下どてらを着たり思い思いの風景であった。其の頃軍事教練が喧しくなり、寮の監督にも軍人が目を光らせ出し大佐の軍人が時々寮に出入した。寮の玄関から板の廊下を軍靴のまま、ガツガツ歩いて来たので、我々の寝泊りしている処を土足で歩くとは、ケシカランと、吉川君と交渉した事を憶えている。そのお蔭か卒業後、幹部候補生の受験のとき、試験官が商大よりの内申書を読んで聞せてくれた。日く「性陰険にして反抗精神にとみ甲種候補生には推薦しがたい」
しかし、甲種候補生には合格したが、人生はどこで仇をとられるものやら、余り行過ぎると必ず反動がどこかに出てくる。一番安全なのは、必ず人の後よりついてゆき、余計な事はせず、自分の生活に必要な最低な事だけをするのが老後であるとするならば、青春の傷の方が、いや若々しく余計なものの固りの青春が生命であり好ましい。老後が人に嫌われるのも当然と云う気がする。もっともな事ばかりで面白くもなんともない。入寮後二ヶ月頃、同室の吉川君が柔道部の先輩につれられ、立川市の飲屋で芸者と云うものを揚げピール十六本飲んで帰って来た。僕はビール十六本に肝を冷してしまった。どうして、そんな液体が彼の胃腑に収容出来たのか今でも不可思議である。殆んどの南寮の連中は泰地君の六人部屋に集り、消燈ずみの真暗な中で、懐中電燈で茶ワン酒を飲みながら、芸者と云う人種はどう云うものか、彼女等が踊った浅い川と云ふのはどう云う踊りであるのか、根ほり葉ほり吉川君の講義を聞せて貰ッた。我々は芸者と云う活字も見たことがなかった。それ程、その頃の予科生は純真であり、大部分が、世間知らずの坊ちゃんで只管、中学で勉強したためか俗世間のことにうとかった。都市生活の人は別として、寮の周囲は林、畑であり武蔵野の豊かな自然に恵れていたが俗塵は皆無であった。一年程して精々世間を知らねばならぬと出かけたのが、国分寺の一杯のみ屋であり、最大のリクリエーションであり、そこの年増の女給をゲーテの恋人に見立てている位のものであった。不思議に近くの津田英学塾の女性とは何事もなかった。何か女のくせにと云う僻みもあり美人も少く安全地帯であった。恋愛、友情、自由、死、永遠等の青春からふき出る観念、また情熱の趣くままに青春を精一杯に生きようとしていた。夜になると北寮の住人柴沼君橋本君等が、カント、へーゲル、スピノーザ、を携えてやってくる。僕も対抗上、図書室で、哲学入門、善の研究、出隆の著作、三太郎日記、ゲーテ、シルレル、カント、ニイチエ、ドストエフスキ等あらゆるものを、飛ばし読みをし、また乱読した。しかし結局彼の力に抗し切れずいつも深夜になって柴沼君に、釈服されるのがおちであった。兎角その頃の読書力は、今の十倍と云うか、地に水がしみる如く、かいこが桑の葉をたべる如く、良否を問はず頭に血が上って読んだものである。今想起すると懐しい思出しか残らないし、青春とはあんたものだと云う感じがしてならたい。畑江、山城、石川等先輩のあとについて、武蔵野の学校横の玉川上水道に沿い、津田英学塾の正門を通り、右折し青梅街道に出て寮に戻る。其の間、寮歌、予科会歌、ボート応援歌、一橋会歌、離別の悲歌を喉一杯に歌い上げるより怒鳴り、途中の桑畑の赤い実を食べながら議論に熱中して歩いた。中秋の明月の頃になると同室の吉川君が窓を一杯に開け放ち文句は記憶していないが詩吟を朗々と歌い出す。彼は鹿児島出身のため矢張り故郷を偲び吟じているのであろうと彼の望郷の念が偲ばれる。寮歌の中に「榾うちくべて、まどいせば紅連の情けとことわに我等が胸に燃えんかな」と云う文句があるが、まこと、寒風の夜、部屋の鉄火鉢に新聞紙等を燃やしながら議論を闘わせた寮生活はこの一言につきるであろう。深夜討論の内容は今から考えると、青くさく、てらいが多く一方的主観的なものであったが、自分達にとっては必死のものであった。良くもあきもせず議論したものだと思う。一つ一つの新しい言葉の定義、概念を自分に価値づけようと血が上っていたのではあるまいか。時間とは何ぞや、価値とは何ぞや、神、人生、真実と真理、と新しい言葉が脳に刺激を加えるにつれ興奮しているだけで、もっと深い外側の人生生活や、金銭病苦にうちくだけている人々への展望洞察を含まず、一橋寮と云うエリート集団の中のコップの中の嵐かもしれない。
しかし、空しいと思えるストームも、時間の浪費と云える討論もそれなりになつかしく青春そのものの花と考えていいのではないか。現実遊離している程、それだけ青春として美しく功利性がなく真の友情も育ったのではないか。学部卒業の前後木島、横山、井出口、高木君と刊行した同人雑誌、葦、白鳥も忘れ難く、同時に死んだ太宰治のことも思い出される。
しかし、僕の一生のうちで、ただ一回しかめぐり会えぬ青春を一橋寮の友人達と共に過し得たと云う意義は大きく、今後とも永久に、僕の胸の中に生きつづけることを確信し、何よりも価値あるものとして深く感謝いたしたい。
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