1組  倉垣  修

 

 その頃、予科二年頃と記憶しているが、経済の解釈学説に右往左往して振り廻わされていた私は偶然にも大宰の、思い出、とダスゲマイネ、を読んで、その蜻蛉の羽根の透明さにも似た弱々しさにひどく感動した事を憶えている。丁度経済学説や、一般教養課程にあきたらたくたってきた私の環境に対し文学は一種の阿片、いや燦然と輝く宝石の印象を与えた。

 季節は秋の頃と思うが、何かの用事で国電中央線の吉祥寺駅の南側のパス停で待っていた時、丁度反対側のパス停に背の高い黒のインバネスをはをった眉目秀麗な長髪の人間が、かたわらに、ひっそりと佇む妻らしい人と同じく、ハスを待っていた。彼はしきりに空の一点をみつめていて、顔を一度も動さなかった。何か一列の行列の中でこの二人だけが異質に思え私の脳裏に焼付いたのが、大宰と私の初対面であった。その後二ヶ月程して井出口君と彼の自宅を訪問した時に、全くの同一人物であったのに驚かされもし、自分の直観に私かな誇を持った。
 大宰の家は、三鷹駅で下車し玉川上水に沿い三、四丁歩いた丁度、吉祥寺駅と三鷹駅との中間位の位置で、五日市街道に近く吉祥寺から行くと井頭公園の万助橋をわたり、柴沼君が師事していた独立展の妹尾画伯の家の前から右の方の奥くへ這入った地点であったと記憶している。三間、六畳、六畳、四畳半、台所だけだと思うが入口にさるすべりの木があり門構は筋違いにたっていて、家の裏は一面のいも畑で赤トンボが群り、畑をこえてはるかに昭和無線の工場と社宅が望見された。私が訪れた頃、昭和十三〜四年頃は大宰も結婚して二三年位の最も落着いた幸福な時代であったと思われる。奥さんは、礼儀正しい方で、いつも畳に手をきっちり揃えその上に顔をのせる様に低いお辞儀をされるので、いつも恐縮した事を思い出す。長女が漸く歩く、次女が這い這いと云った様子で、雑誌記者の訪問も少く、時々お邪魔しても、そう迷惑でないようであったので、私は下宿の退屈の暇をみて、しばしばお邪魔した。初めに驚いたのは小さな坐り机がある許りで、かたわらに、聖書一冊、書籍は皆無に均しかった。私が不思議な顔をしたのか、彼は言い訳らしく、「創作するのに本を読みすぎると、自分自身の個性が出ないんでね。本に埋れた文人は本物でない」と自分を自潮するように云った。南側が縁になっていて、次女がよく這出して来た。ウー、ウー、と云いよだれを出しているだけで、少し異様に思ったが、大宰の死後、出入りしていた文学仲間から、実は唖だったと聞かされ、大宰の桜桃忌も、彼が、さくらんぽは物言わずと云っていた事が一連の事として思い出され、彼の放将な一見無頼とも思える生活もここに一つの原因があったのかとも思える。しかし、この事は、死後の噂であり果して唖であったかどうか遺族に対し間違いであれば、お詫びしておく。大宰とは何を語り合ったか、記憶に定かでたいが、文芸評論的な話をしていたと思う。彼は私を評して「君は坐っていると堂々としている様に見えるが立つと、案外に足が短く小男なんだね」と珍しく身体つきを批判してくれたりした。

 時々、中央線沿線に住む山岸外史、亀井勝一郎、今氏の活しが出た。今頃どうされているのか消息不明であるが、その頃、出入していた、砥石氏、菊田氏、小山清氏とは良く大宰の部屋で一緒になった。大宰は「ほんものと、贋物」と云う事がすきで、自分自身本物と信んじこんでいたらしい。まやかしもの、と云う時は実に軽蔑していると云う風であった。本能と云うか、まやかしもの、に対する厳しい態度は文学に及ばず、日常生活の万端にまで及んでいたと思われる。彼ほど虚偽、いつわりをいみきらった人は少いのではないか。
 いつか、亀井氏の所から帰りがけに、万助橋のあたりで「君、亀井さんが、歌をつくって、僕に誇らしげに見せるんだ、一読、噴飯もので、彼には悪いが、字がならんでいるだけなんだよ。君、恐しいと思わないかね。こう云う人が、文芸の批評家で立派に飯が喰え世間から先生、先生とたてまつられるんだよ。批評家、学者先生は楽なものなんだ」と云ったのを記憶している。
 特に大宰は、志賀直哉に対しては体質的にも全くあわず、志賀の暗夜行路は、特に鼻もちならぬものの様であり、その題名の勿体をつけた、暗夜行路と云う題そのものが、にせものと判定していた様であった。しかし、森鴎外には大変敬意を表していたが彼の考えている文学の世界とは違った世界であったと思われる。大宰との文学論で、彼がよく私に「君、小説、創作と云う代物は、どうせ天下国家のものでなく、婦女子の読むものだよ。女や、子供が寝ころびながら楽しく読むものが、一番すぐれたものだよ」と云う処に既に、志賀直哉の考え方と全く違う世界に住んでいたのが、うなづける。次に、彼は「文学とは弱きものの味方である」と云う事を信条とし、またそれを実行していたとも思える。文学青年仲間や、とりまき連と吉祥寺の酒屋、バアーヘ行った時も、そこで一番目立ない醜い女にあたたかい言葉をいつもかけ、チップも人一倍やっていたと思う。私には御指名のない片すみでいつも坐っている女に気を使う彼が不思議であった。大宰に原稿料が入ると、雑誌記者等とバアーヘゆく。そして持金全部それこそ呆れる程、きれいに散財してしまう。私達はいくらなんでもと云う気持と、情けない様な気持になり、大宰が、マントの下から美しい長い指で数えて、呉れてやった野放図に額のはったチップを女達から、彼が店の外へ出てから取りあげて一とまとめにして、奥さんにコツソリ渡してあげたのを憶えている。その時の奥さんのほほえみは、末だに忘れられない。私も大いに文学青年ではあったが、文学の杜会に足をふみ込むのをためらわせたのは、この大宰の純なまでの生活態度にひるんだせいもあり、また才能がなかったためでもあろうが、いや、恐しさであったと思う。とに角、金、生活の価値より、自分の想念を現実の上部にしっかりとすえつけ、純なまでに虚偽、いつわり、にせものを嫌うその生活態度に恐れをなしたと云って云えるのかもしれない。それは、それとして私はその頃、大宰に心酔していたと云っても過言ではたい。戦後、桜桃忌がさかんになり、若い人々がひかれるのも、何か彼のこの純粋さと、弱さにひかれるのではないか。

 彼は、あけくれ、聖書をよみ、私に「僕は、若いキリストが好きだね。僕はこの若いキリストのようになりたい」と眩いたりもした。実に彼が脱稿し、一篇の自分の心にみちた創作を完了した時の瞳の輝き、顔の色つや、風貌は、慈愛にみち人をひきつけるものがあった。後年またそれまでも度々女性関係がとやかくされたが、敢えて大宰の為に弁護すれば、彼は女ぐせが、悪いのではなくて、女性の方から、ほれられ、それに対し彼の方から突き放せず、ずるずる深みにはいったのだと思われる。奥さんは、甲府の方で、井伏鱒二氏が仲人されたと思う。奥さんの兄さんは、大宰が死んだ時、東大の教授をされており、奥さんと子供さんは、兄さんがひきとられて、奥さんは本郷の方へ行かれたと思う。話しが前後するが、私は、学部へ進学し、吹田順助先生のところで、独乙思想史でもと考えていたが、「観念風景」と云うその頃の現実遊離しながら必死になって、戦時色こくなる時代の中で、生き方を求めていた自分を素材にした小説を書き、或る日、おそるおそる大宰のところへ持参した。批判を乞い一週間許りして、再度今度は入試の発表を見る気持で参上した。玄関を上るなり、丁度、夕方でもあったので、飲みに行うと云うことになり、大宰と二人で吉祥寺の巷に出た。私は内心おそるおそる何を云われるのかと顔色なかったのではないかと思う。二軒位御馳走になったが、全く酒が廻らなかったのを記憶している。すると、歩きながら、大宰が「君、あれはいいよ、若し君にその気があるたら、今後とも、創作をみてあげてもいいし、雑誌社を探してあげていい」と言ったので、これこそその当時の私には、青天の霹靂でもあり、何しろ少し認めてくれたらしいのでうれしくもあった。その夜は、調子に乗って、大宰の家へまた上り込んで、「枯葉は青葉より、あつみがあり、重いんだ」と若気の至りで議論を吹っかけたりしたのを思い出す。しかし、僕の文才もこの小篇を書いた苦労が思い出され、創作が、考えたより苦労が多い事を身に泌みさせられた。私は、第二補充兵のため、入隊まで一年半許り時間の余裕があり、会杜に入杜したときも大宰の処へ挨拶に出かけた。玄関を上り、対座し、私が今回A杜に入杜しましたと報告すると、大宰は「君、そんな虚偽、いつわりの会杜に入って、どうするつもりだね」となじるように眩いた。これは私には、ショックであった。それまで、親戚、知人、からもそれは、いい会杜に入杜出来たね、と祝ってくれた人が、多かったので、浅薄な私は、大宰もその一人だ位の無意識下で思っていたのかもしれたい。虚偽、いつわり、は大宰にとって、君はいつも自分達で話し合っていた一番安心出来る純粋、正直な世界をすてて一体、君の持っている正直、純粋はどうするつもりかね」と反語している様に思え、また軍需品を作っている会杜等は大宰にとっては、それこそ虚偽の固りであったのかもしれない。
 現在でも、サラリーマン社会の哀歓の具体的な具象にぶち当る度に、この大宰の言葉が思い出される。しかし、人間は、万人、顔がことなるが如くそれぞれに飯を喰い生命を保持せねばならぬ。しかし、私が会社で余り出世せず中途半端で終ったのも、青春時代の大宰の影響を見逃す訳にもゆかぬと思う。所詮、極言すれば、会社生活は裸の人間としての主体性を或る程度、犠牲にして、その量だけの生活維持費用を頂いているのだとも云える。会社生活のマシンの一翼にのめり込まなかったため、今、却って第二の人生で元の職場の人達よりの友誼を蒙っている。人生と云うものは、自分のやったことは、死ぬまでに刈りとらねば、死ねないものかもしれない。仕事の鬼となり、部下に恐れられた事の皆無な私は、却って幸福なのかとも思う。

 昭和十八年十月、召集令状がやって来た。私は父母妻子との別れをすませると、早速、大宰のところへ、飛んで行った。多分井出君と一緒だったかと思うが記憶が定かでない。彼の生活は、従来の通りで、快よく迎えてくれ、また、吉祥寺のオデン屋、カフエ、を飲み歩き、私もこれが最後だと思うと、予科の寮歌をきかせたりした。この時ばかりは、普通、この様な通俗的な事を嫌う大宰にしては、よく叱られずにすんだものだと思う。玉川上水に沿って彼の家まで来て、別れようとすると、まあ、家に寄って行けと云う。上ると、大宰は、「おい、障子の紙があったろう。墨と筆を持って来い」と大声で奥さんに命じ、障子の巻紙をするすると畳の上にのばし、暫く考えておられた様子であったが「川ぞいの道をのぼれば、赤き橋、またゆきゆけば人の家かな」と云う自作の歌をしたため大宰治と署名「君、これを饒別にやろう」「人の家と云うのは、自分の家であるけれど、他人の家のようなものだ」と云いながら手わたしてくれた。私は意味わからぬままに頂いたが、現在も「他人の家のようだ」と云う意味は判らない。復員してみると、家人が表装しておいてくれたので立派な軸になっていた。

 大宰の死後奥さんより、夫の遺品として頂きたいとの話しがあったので、早速「カイゼルのものは、カイゼルヘ」と云うことでお返しした。知人の中には惜しい事をしたと云う人もあるが、現在も返してよかったと思っている。私の処にあるよりも、奥さんのところにある方が、はるかに掛軸、自身も生きがいを感じているであろうと思うからである。終戦後、大宰は、流行作家の一人として、登上して来てからは、悲惨であった。私には、それがよくわかった。いつたづねても、玄関は、足のふみ場もない程でせまい六畳に記者や、文学青年で一杯で、落着いて話すことも出来ず、顔をみるだけで安心して帰ると云う事が多かった。弱者の味方の大宰の純粋さは文壇杜会、マスコミにかきまわされてもみくちゃになっていたのかもしれぬ。あれでは作品がかけぬと思っていた処、朝日新聞の朝刊連載、グッドバイを書くと云うので驚愕した。それこそ虚偽、いつわりの社会である。

 戦後、ダンスが流行し、私は営業上の必要もあり、品川のパラマウントと云うダンスホールで、一曲踊りピールを飲うとしてテーブルに腰をおろし、ビールをこぽしたため、ダンサーが慌てて、横にあった新聞で卓を拭っ25た。ビールに濡れた新聞に大宰の写真と死が報ぜられていた。私は目を疑った。

 しばらくして、涙が出て来て、押えようにも、どうしようもたかった。ダンサーはこの精神異状の男をどう考26えたかは、知らないが、心と心でつながり、私の青春に大きな影響を与えたものを失った悲哀と云うものであろうか。翌日、菊田君より電話で、サン写真新聞が遺体の写真まで撮ろうとするので、コーモリ傘で追い散らした。君にもやって貰う仕事があるので直ぐ大宰宅まで来て欲しい、旨連絡して来た。行って見ると、井伏氏が大宰宅で将棋を静かに見たれぬ人と指しているだけで警察等うるさく、結局死に顔を見ずに帰って来たのが一番心残りとなった。桜桃忌も三回程出席したが、財閥会社に勤めていると云うことで、忌が終ると、ゾロ人\有名無名の文士が吉祥寺の飲屋に集り、勘定は、いつも私一人にかぶってくるので、それ許りでもないが、私自身も戦後の生活にあえいでいたし、奥さんには申訳ないが自然に足が遠のいてしまった。司会をやっていた臼井吉見氏も今は既にない。昨日の事の様に思われる大宰との交友も数十年の年月がたってしまった。十四、五年前に大宰全集を筑摩書房より刊行されたとき、昔の文学仲間が思い出してくれたのか、刊行物に大宰の思出を書いてくれと云うことで、書いたのであるが、それも、どこへ行ってしまったのか見当らぬ。現在、大宰は生存されておられれば、七十五歳位と思われる。それにしてもあまりにも、若い死であったと感慨にたえぬ。まだ、色々思い出があるが余り長くなるので、再度天才であり、大人であった大宰の冥福を祈り筆をおきたい。