1組  塩見 英次

 

 年をとって頭が堅くなった所為であろうか今の世の中には、どうしても理解出来ないことが多い。
 昨今のインフレは、主として石油の値上りに因るものと思うが、『そのための生計費の膨張分をカバーし、更に生活向上分までも上積みしたもの』と云うのが、労働組合の賃上げ要求であって、而もこれは当然な要求として、一般に是認されているようだ。

 然し、コストアップ分を転嫁出来る業種業界では、その通りかとは思うが、転嫁出来ない場合も多い筈である。その様な場合にはこの要求に対して、如何様に対応したらよいのか判らない。
 要するに、生産性とか業績収支状態にかかわりなく、企業には従業員の生活水準を維持するばかりでなく、向上せしめる義務があると云うことらしく、そしてそれが出来ない場合は経営者の責任であると云う。
 元来日本の現状は麻雀の点棒と同じで、一部をOPECに持ち去られているので、最初から足りない。従ってお互に足りないのを承知の上で我慢して、その上で貧乏人同志、被害者同志が、むしり合いせざるを得たな羽目になっているのだと思っているが、これは間違いであろうか。

 社長よりも高額所得者がゴロゴロ居りながら、未だ不満だと云うのは、どうしても理解出来ないし、一方企業の業績は、経営者の手の全然及ばぬところに左右され、振り廻わされているにも不拘、責任だけは人並に負わされているのも、これ亦判らない。
 当局の担当官に質したところ『讐え役員と従業員の所得が逆転しても、巳むを得ぬことであり、それこそ役員の在り様だ』とお説教をされた。(私の会社の場合、役員の月例報酬は当局の監督下にあることを申し添えて置く)

 同業のある会社で成績優秀な社員を役員に推薦したところ、役員になると当然に減収になるので、『自分はそんなに悪いことをした覚えは無いのに…』と、まるで懲罰でも受けるかの様にぼやいた者があったとか。ことの真偽は別にして、この様な笑話が伝えられる現状は、矢張り異常ではあるまいか。

 日常見聞することにも、おかしいなと感ずることが多い。
 成田空港の開港に今なお反対運動が続いているが、本当に反対している地主の数は、ほんの一握りだそうだ。然し若い人によると『非民主的なやり方で政府が悪い。譬え一人でも反対者があれば、強行すべきではない』と大真面目に云う。
 然し一方では空港のみならず、道路鉄道電気ガス水道等々の近代諸施設を利用し、その恩恵を享受していることは、『既得権は別である』の一語で片付けて仕舞って、その間に何等の矛盾を本当に感じないらしい。
 これを今流行りの『自分第一主義』と云うのであろうか。

 決められたことにさえ従えば、それ以外のことはやらなくても良いと云う、権利と義務についての、逆説的な考えも多い様である。
 毎日定められた路線を何回か無事故で往復運転することが、自分に課せられた務めであって、客を乗せようが乗せまいが、自分には無関係であると、私にはつきり云い切った某大手バス会社の運転手が居た。
又国電の次の駅名の車内アナウンスに、電車が今何処を走っているのか知らぬらしく、発車後機械的に『次は……』とまでは放送しても、次の駅名が云えず暫らく絶句する車掌が時々居る。
そう云えば、或るバスでのこと、私が下車するまで車内放送(テープ)が全部一停留所づつずれていたことがあった。要するにテープのスイッチを入れさえすれば、良いと云うことらしい。運転手は勿論平然としていたが乗客もこれまたよく仕付けられて居り、窓外を眺めながらタイミング良くブザーを押して、黙って文句も云わずに夫々下車して行った。真におかしな光景であった。

 或る会社での話である。
 遅刻が多いので厳しく注意した。その後の出勤状態をよく観察すると、定刻に出社した後にトイレ(大乃至髭剃り)に行くもの、朝食に行くもの等が続出した。之では何もならない。又管理職(部長)で休日に出勤した場合当然の様に週日に代休を取る者が居るので『管理職としての自覚に欠ける者が居て困る』と零したところ、『そんなことを云う方が頭が古い。管理職に対して過大な期待をしているのだ』と逆にたしなめられたそうだ。

 我々が直接見聞することだけでも、万事にこの類のことが実に多い。マスコミの報ずるところまでも、一つ一つ書き挙げていたら際限がない。昨年の新入社員を或るジャーナリストが『コインロッカー型』と評して話題になったが、か様な傾向は若い人には限らないようである。コインロヅカーばかり並んでいて実に不便で仕方がない。
 このことを或る席で話題にしたところ、何処でも同様であるらしく、とうとう最後には愚痴の零し合いの場となって仕舞ったことがあった。

 『ジャパン・アズ・NO・1』という本が広く読まれ好評であったが、これでも日本はまだそんなに良い方なのであろうか。むしろ『このままでは何れ日本は行き詰り、その中に危機に直面するだろう』と云っているジョン・ウオロノフの『新ニッポン事情』の方に共鳴する点が多い。然しアメリカ人に指摘されているのは何とも情ない次第だと思う。
 こんなことを真面目に考えていると、だんだんいらいらして腹が立って来るが、之も年の所為かなとも思う。もっとも、その都度憤慨してもどうなる訳でもなし、第一憤慨すると血液が酸性になり体に良くないそうだ。従って昨今は大体諦めて聞き流すことに努めているが、仲々頭の切り換えが出来ない。これも亦年の所為かなとも思い直したりしている。

 昭和四十年頃であったろうか、或る経済雑誌の論文で『コスト・プッシュ・インフレ』と云う言葉を始めて読んだときには、本当に驚いたが、今では当り前のこととなり、『現代はそうなんだ』と私自身も思い込んでいる。そして自分もそれだけ新しい時代を理解し進歩したのかなと、妙な反省もしているが、それにしても『か様な風潮この悪循環の窮極は一体どうなるのかな』とこれまた余計な心配をして、例の漫才ではないが、夜眠れなくなって仕舞う。
 経済企画庁の調査によると、経営者の八二%が近い将来スタグフレーションに陥ると考えている由であるが、殊に自分の老後の生活をも考え併せると、不確実の時代だから仕方がないとばかり呑気に構えて居る訳には行かない様に思う。

 嘗つての高度成長時代には『消費は美徳』と云われ、使い捨て時代が到来したと聞かされたが、物の無い時代を痛い程経験した者として、『消費が景気を支えているのだ』と云うことを、どれ程説明されても理屈はともかく、心底からは納得出来なかった。
 古いものを何時までも大切に仕舞い込んで『もったいない』とか『冥利』とか云う言葉を何時も口にしていた母が、『今の世の中は一体どうなっているのか判らない』と云って居たことを思い出す。
 然るに昨今は『省エネ』にはじまって、万事消費節約の時代になって来たので、『矢張りそうなったのか』と何んとなく得心出来た様な気持である。

 この様に今の世の中には納得出来ないことが多いが、然しこれは一過性の現象で、十年か二十年もたてば、何時かは然るべきところに落ち着くのかも知れない。然しそれを見届けられずに、憤慨し放しで、又心配したままで、或いは母の様に疑問を抱きつつ一生を終る羽目になるのは堪らない。
 然し落ち着くとは云っても、ぜんまいの切れた時計の振り子の様に、自然に落ち着くのではなく、それまでにはもう一度大変動に因るショックや塗炭の苦しみを経なければならぬかも知れない。
 若しそうだとすると、過去に体験した様な苦難は、もう一度はとても乗り越えられそうにもないので、それ迄生き長らえることは、御免蒙り度くもなる。
 この辺のことについて、誰か良い智恵を授けて下さる方は居らぬものかと、思いあぐねて居る今日この頃である。

 (追記)

 現代世相雑感(いまのよのありさまながめておもえらく)と題して、つれづれなるままに、よしなしごとを書き綴って見ると、既に制限紙数に達して仕舞った。更めて読み直して見ると甚だまとまりなく、とても、今様『徒然草』にはなっていない。
 その上今の世相の悪い面ばかり拾い上げて少々憎まれ口をたたき過ぎたようだ。今の世には決して悪いことばかりではなく、それなりに良い面も沢山あり、例えば、ボランティア活動など、むしろ感心させられることが多々あることも、これ亦事実である。

 要するに、世代が交代しつつあるのであって、寂しい限りではあるが、我々は既に用済みになりつつあることになる。従って、今後は趣味など好きな道に、気を紛らわして過すこととし、気に入らぬ風潮には目を瞑り、良い面だけを眺めて、静かに暮らすべきかなとも思うが、生来の無趣味では、今更どうにもならず、悟りの境地には、とても程遠い心境である。

 

卒業25周年記念アルバムより

卒業25周年記念アルバムより