1組  柴田 信一

 

 武蔵野は月に入るべき影もなし
草より出でて草にぞ入ぬる  (古歌)

 大正中頃から昭和の初めにかけて約十四倍も人口が増えたと言われる杉並に、中央線阿佐谷駅ができて間もなく、地方から移住し、戦前戦中戦後と過して来ましたが、宿世の因果か、世の大きなうねりに従ひ、県境となる江戸川を渡って流山に移り住みました。

 さしもの東京も、中央線、都心常磐線と来ると、乗り降りする人々の、なりふりから顔付まで、ガラリと変ります。現代風で、知的な個人主義的な雰囲気から、何とはなしに野暮ったい感じを匂はせながらも、隣り合せた人に声をかければ愛想よく受け応えして呉れる親しみ易さに、変って来る。高度成長を牽引したものが、山の手で、引きづられて行ったのが下町なのだらうか。引っぱって釣り上げたものと、引きづられて壊されたものと、どっちが大きかっただらうかと想いながら、都心を東西に往来します。

 人を待って呉れているかのやうな電車。燈色の体に単純に白線を一本引いた車輌が、カタンコトンと単線レールをきしませながら走る。欝蒼として大樹が覆い、海につき出た岬のやうな、丘を通りすぎると、白鷺が数羽たわむれる広々とした田んぽが拡がる。幼児が描く電車が走る。青い丘の蔭から音を立てて姿をあらわし、真正面に広がる景色を横切って行くさまを、遠くから田の畔に佇んで眺めていると、胸の奥の方に永いこと仕舞はれていたものが、ワッーと湧いてくるやうな感動に拘われます。

 日本鉄道土浦線(常磐線)の通過を、江戸川の船運業者が拒否したために、明治中頃から昭和の高度成長の始めまで、いわゆる開発からは疎外され、停滞していた。近代型でない味醂工場。旧式のしこみの高い塔。巨きな樽。木製で古びた瓦屋根の棟々。厚い白壁の倉の数々。長々とめぐらされたコンクリートやトタン板などの十尺以上もの高い塀。今だに取り壊されないで朽ち果てたままの明治時代の洋館風の事務所が、太くて重たそうな時代がかった門扉の奥に、うかがわれます。

 往時は、いかめしく豪壮で光っていたであらう瓦屋根もつやを失い、だだ広い間口も傾いてしまっている商店。かっては八方の農家に支えられて繁栄したであらう。奥行きの深い構えの数軒の呉服屋。それに錆ついた火の見櫓をはさんでペンペン草を生えらせてそのままの藁葺屋板で雑貨を商っている店もあります。あたりはずっ一とひっそりかんとして、ここだけは空気も清く洗はれたやうな道路が、嘗つての殷賑を忘れたかのやうに、江戸川に沿って走っています。大東亜戦争も日露戦争も傍目に過ぎて行って了ったかのやうだ。大正時代の青梅街道や五日市街道がそのままの姿でここには残っています。

 大正末に、中央線阿佐谷に移住したころ、一寸歩くと、どこまでも平らな武蔵野の風景には、鎌倉時代に豪族たちが行き交ったり幾度か合戦したりした情趣が、永く永く変らずに漂っていた様に見えました。豊島城跡の大きな森が阿佐谷や鷺宮界隈から眺められました。阿佐谷鷺宮練馬と通ずる道は、牛車一台かよえる畑の中の道でした。今はただ傍若無人に排気煙の臭気が流れていて、胸をつまらせます。

 流山のこちらでは、頼朝が頼りにした千葉一族たちが野馬追ひをし、名馬磨墨などを献上したりし、徳川時代になつても永く行われて鷹狩の狩場であった地勢が、ここかしこに、たたづんでいます。
 江戸川(旧大日河)のゆったりして尽きない水流は、近辺の人々に、激しい時代の軋櫟を忘れさせてくれたのではないかとすら想はせる。生活のそばに、毎日毎日、変らずに流れる大河があることは、心を和ませてくれるばかりか、人の世の行末などは些細なことのやうに語りかけているようなのです。
 分譲地での新住民の家造りも盛んなので、地鎮祭や建て前などの祝儀で潤ひ、境内も手入れが行届き、木肌も磨きぬかれ、社務所など鉄筋コンクリートで建てなほされて、祭も大変盛んな神社もありますが、やり放され、鳥居も本殿も痛みかかって、神主は勿論、祭神さえお留守なのかと思はれる社の方が、そこはかとなく先祖の霊が、さ迷っている様で、木立の間に冷やりとして鬼気さえ感じられます。こんもりした森かと見れば、こんた社が、其処此処に、あまた鎮座しています。

 大きな深い森や林が、空や雲をくっきりと区切って幾重にも幾重にもたたずみ、屈折している。高く太く伸び動く幹や枝が、まるで動物のやうな息遣をして骨格の趣すらある。箒を逆さにしたさまで、竹林が上に向って広がり、しばらくじっと微動だにしない。外からの風とも見えず、やおら奥深いところからぶるぶると震えると、やがて竹やぶの全体が大きくゆさゆさと揺れ動き出す光景は、確かに何かの表情です。竹やぶを背にした藁葺屋根の農家。両方から打続き迫った巨きな森のうねの最も奥まったところで、懐の中に休らうやうに落着く屋根。前面に広がる畑を、腰をかじめながら働くお百姓たち。空と雲と森と農家と、彼等の先祖が、幾代も幾代も語らい合いながら一緒にいるかのやうな眺めなのです。全く幾世代もの魂と自然との調和があって、こんな風景は最後の最後の美しさなのだらうかと、思はず不思議だなあ!と感嘆の声が出てしまい、何時までもそこから立ち去ることができません。
 武蔵野の東の方に移り住んだ人生の暮れ方に、幼い頃の、西の方の憶ひ出を、汲み出しながら、又、自然の懐の中にすごすことができるやうな気がしています。

 

卒業25周年記念アルバムより

卒業25周年記念アルバムより