一橋を卒業してから四十年の歳月が流れた。その感慨は「河山一局棋」の一語に尽きるといえる。
「河山一局棋」は、天才棋士呉清源さんの色紙から借用した言葉である。一局の碁は無限の変化に富んでいる。人生もこれに似て、平坦な道もあれば、山もあり、川もある。転機における決断と行動が人生を決定する。しかもやり直しが許されない厳しいものだという感動がこめられた言葉のように思われる。
私事に亘って恐縮だが、この四十年間を振り返ってみると、太平洋戦争の勃発、繰上げ卒業、三井物産本店入社、上海支店へ転勤、現地召集、敗戦、引揚げ、GHQの財閥解体指令、三井物産の解散、物産新会杜東邦物産への移籍、東邦物産の分裂、相互貿易への転属、主流からはずれた新会杜の業務に対する焦燥感、転職の決意と実行、大日本インキ海外事業部での十年間、外資系企業への転進等、目まぐるしく揺れ動いた生活、その時々、已むにやまれぬ事情に押し流された自分の人生は、正に「河山一局棋」であった。
人生を一局の碁とみれば、現在は中盤を過ぎて、ヨセの段階に入ったところだ。不利な布石でスタートして苦労したが、中盤は自分なりに力一杯打てたものと思われ、幸せといわなければならたいであろう。兎に角人生の骰を自分の手で振ったという些かの慰めもある。
しかし級友の中には、才能に恵まれ、前途を嘱望されながら、人生の布石、それも極く初めの段階でこの世を去った者、あるいは、中盤を打ち終えて、稔り多き終盤に向う段階で亡くたった者も少なくない。その死に臨んでの胸中は窺うすべもない。自分の記憶の中に生きている亡友を回想して、冥福を祈りたい。
梶尾映一君。
父君が三井物産高雄支店におられる関係で、台湾から来た秀才である。小平寮北寮で隣室に居た関係で親しくなった。時々彼に物産の浜田山グラウンドに連れて行かれ、テニスに興じたことがある。入寮した翌年の冬、雪が降ったことがある。台湾育ちで雪を見たことがなかったので、彼が妙に昂奮して、雪だ、雪だと叫んで喜んでいたのが印象に残っている。
海軍主計将校で終戦直前にマレー東方の海域で戦死したと聞いている。一緒に三井物産に入杜したので生きていれば、長いこと交際できたものをと残念に思っている。
池田武雄君。
府立一商時代から敬愛していた友人である。彼と、戦時中に亡くなった疋田博次君と三人一緒で、予科の入学試験願書を提出した。受験番号は確か、池田、島田、疋田の順序で、四〇三、四〇五、四〇七番であった。合格者発表の日、国立の本科事務所脇の掲示板に、この三つの数字が並んでいるのを見て、三人で抱き合って喜んだのを覚えている。池田君とは学生時代によく一緒にスキーに出掛けたことがある。予科三年の冬に、彼と二人で熊の湯から樹氷の渋峠を越えて、草津ヘスキーツアーをやったことがある。前夜白根山が小爆発して火山灰を降らせたため、期待していた草津への下りが、スキーが全然滑らないので随分苦労した思い出がある。
彼は健康を害したため、将来を嘱望されていた日本銀行を罷めて、公認会計士として自営の道に進んだ。その温和な親切な性格で皆から敬愛されていた。
中島英矩君。
彼が偶々池田君と北寮で同室であったため、彼とは入寮後直ぐ親しくなった。髭が濃かったので、中島ヒゲ矩と呼んでいた記憶もある。彼が居るだけで周囲が明るくなる気分のよい男だった。彼とは銀座のビヤホール、ミュンヘンに一緒に行ったり、また銀座並木通りのカフェーに初めて連れて行かれた記憶がある。そこは彼が兄さんに連れてこられたところとのことだった。例のサッパリした人なつこい性格のためだろうか、仲々の美人に持てていたのを覚えている。彼は復員後、戦死した兄さんの嫂と結婚し、兄の遺児と三人で、三菱鉱業飯塚鉱業所の社宅に住んでいた。確か昭和二十四年頃のことと思うが、炭鉱住宅資材関係の仕事で九州に出張した時、飯塚の社宅を訪れて、卒業後の再会を喜びあったことがある。その後は東京・九州と遠く離れていたため、再会の機会がないまま、彼は思いがけたく病没してしまった。
「人間は独りで生きてゐるのではない。かりそめの縁といへども仇にするな。」
これは中山先生がわれわれの卒業アルバムに餞けの言葉として贈られたものだが、今にして思えば、自分の生活にかまけて、かりそめの縁をないがしろにしたことが悔まれてならない。
さて「河山一局棋」もいよいよ終盤にさしかかったが、最近の心境は如何と問われれば、『論語』にある『用之則行。舎之則蔵。』といった自在の心境になりたいものだと考えている。
さらにまた、「賢愚老其中」という言葉も浮んでくる。これは伊藤博文がある碁客に与えた書にある言葉だそうである。其の中とは橘中の清遊、すなわち囲碁の楽しさを指すものと思われる。賢者も愚者もともに囲碁の楽しさの中に憂を忘れて老いてゆくことができる。
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