1組 末永 隆甫 |
昭和十六年十二月八日は「真珠湾攻撃」の日であったが、われわれの大学卒業も三ヵ月ほど繰り上げられて同年十二月末であった。 私は、早川泰正君とともに、企画院の嘱託として翌年一月十日頃から調査部での勤務を開始した。しかし、それも束の間。間もなく召集令状がきて昭和十七年二月一日に姫路師団の第五十四部隊(輜重兵部隊)に入営ということになる。同年一月末に近い頃、手切れ金四十五円なにがしかを日割計算で支給され、それと引きかえに退職願を出して神戸へ帰ったことを思い出す。 覚悟はしていたものの、一〇〇名の幹候要員入隊者の中で、兵隊に残された者が二名だけ(残り九八名は甲幹または乙幹)ということになると、あまりいい気持がしない。しかし、不思議なことに、幹候試験の結果が判明するまでは、われわれを敵のようにいためつけていた古兵たちの態度が、こちらも兵隊で残ることが分ると、ガラリと変って百年の知己のような工合になった。軍隊とは妙な所だと思った。「階級社会の縮図」といわれていた軍隊で、兵隊、下士官、将校と階級差は厳然と存在していたが、同じ階級内での連帯感は意外に強いものがあることを知った。しかし、大学を卒業して軍隊に入ってから、毎日馬の面倒を見なければならなくなったのには、大いに参った。何のための大学での学問であったのか。しかも兵隊には書物や雑誌類はもちろん、新聞を読むことさえ許されない。これでは人間誰でも馬鹿にならざるをえない。そういえば、軍隊内では、「馬鹿になれ」ということが繰り返し上官から説教された。馬鹿な兵隊と賢い将校との組合せが強い軍隊の要件だというのであろうか。 とにかく、私にとって、軍隊生活は不快の連続であったが、それでも、軍隊生活で最下層の人間の生活を四年近くも体験したことは、その後の人生にとって必ずしも無駄ではなかったと思っている。私は兵隊としてもあまり良い兵隊ではなかったらしく、六回ほど部隊から部隊へ転属させられた。良い兵隊は同じ部隊に長く残留して「神様」になるのだが、ちがった部隊を転々と移動させられる兵隊は、どこへ廻されても「新兵」と大して変らず、苔が生えて「神様」になる暇がない。いたずらに年期だけは延びてゆくが、年期が物をいうのは同一部隊内だけの事だ。「将校に適せず、下士官に適せず」という配属将校の内申書が、軍隊内での私の運命を決定したように思われるのだが、今になって回顧すれば、当時、幹候試験に合格して将校や下士官になった同僚たちは、すぐ後に動員令が下ってソ満国境に送られ、終戦までにかなりの人々が戦病死したと聞いている。その戦没者のことを思えば、いくら苦労をしたといっても、生きて今ここにあることは有難いことだと言わねばなるまい。十二月クラブのわが学友諸君と大学卒業後既に四十年、革命と戦争の中を生きた世代として、われわれの息子たちや孫たちを再びあの悲惨な戦争に追い込まぬよう、残りの人生を反戦・平和に何がしかでも寄与するようた生き方をしたいものだ。お互いに健康に留意して頑張りましょう。 最後に、不幸にして戦死または病死で、もはやこの世にたい学友諸君の御冥福を祈る。 |
卒業25周年記念アルバムより |