会社での私の席の後の書棚に、仏像の絵葉書が飾ってある。毎月違った仏像になる。今月は奈良東大寺戒壇院の多聞天である。同じ四天王でも太刀や戟(げき)を持っ持国天・増長天の忿怒の形相とは異なり、又巻物と筆とを持った広目天の遠くを望むような感じとも違って、宝珠と宝棒とを手にして何かを耐えているような、ふき上げて来るものをぐっと抑え込んでいるような、そんな切迫した顔の多聞天だ。
これは一昨年秋、あるグループで「東大寺三月堂」をテーマにした上原和教授の講義を聞くに際して、復習の意味で奈良を訪ねた折、飛鳥園で手に入れた一組物の絵葉書なのだ。
月毎にその折々の自分の気持に応じて、或いは順応的に、或いは抑止的に、しかも相成るべくは同じものが年間にてダブらぬように配慮してとり替えて行く。
そして五十六年六月は多聞天が顔を見せている訳。とすれば私の現在の心境はなにに耐えているのだらうか。なにを抑えようとしているのだらうか。
それはさておき、私も先頃知ったばかりなのだが、この多聞天が実は七福神のメンバーでおなじみの、福徳富貴の神、毘沙門天と同じだとのことだ。そして又この毘沙門さまの正面腹部に鬼面が描かれていると云うのを、ご存知だろうか。この鬼面を「海若(あまのじゃく)」と云い、毘沙門天が本来水神であったことを示しているとか、なお又、この鬼面の名称が転じて、のちに足もとに踏みつけた邪鬼のことを「天邪鬼(あまのじゃく)」と呼ぶようになったとか云うことだった。
併し「海若」と云う文字からすれば、「水神」とするより「海神」ではなかろうか。言うなれば「東洋のネプチューン」であり、一昨年ギリシアで見そこねた「銛を投げんとするポセイドン」を想起させるものではなかろうか。
ところで我々日本人は本来「農耕民族」のせいか、全国各地に水神、竜神、治水、灌漑など水に縁のある伝説やら遺跡やらが、数知れず見聞されるようだ。
これは昨年のことだが、初秋九月末、思い立って「大和路めぐり」をした。その折室生寺を訪ねたが、この寺は奈良時代初期役(えん)の行者が開き、平安初期に空海が再興したものとして、「弘法大師一夜造り」と称される高さ十六米余の可愛らしい五重塔とともに有名であるが、この寺の奥にあたり、室生川の水源とも言うべき場所に、竜神を祀った竜穴神社がある。この神社は室生寺より早い創建であり、その両乞い信仰にまた空海が結びついていたと云う因縁もあるようだ。
「大師」の称号を一人占めしたと言はれる空海、弘法大師には、それこそ全国的に「弘法伝説」が枚挙にいとまない程散らばっているのである。
しかもその内容は讃岐国多度郡にある万能(満濃)池の開堀を筆頭に、治水、灌漑に関係あるものが圧倒的多数を占めていると聞く。
空海の場合は真言宗乃至真言密教の日本に於ける開祖として、所謂「鎮護国家済世利民」と云うような宗教的・理想を抱いて、国家利益と結びつき又反面、国からの援助も仰いで、発展して行ったと考えられる。大乗仏教の一大典型を見るようである。
ところで奈良仏教界にあって、言うなれば空海などのはるか先達に役小角(えんのおずぬ)、行基(ぎょうき)などがをり、正に民衆の公益のため或いは慈善事業のために力を尽していた訳だが、彼等の信仰した仏教は、そして又、わが国に渡来した「そもそもの仏教」はどのようなものだったのであろうか。
昨年十一月下旬には、始めて国東半島を訪れた。クラスメイトの塩見君も一緒だったが、短時日に走り廻って見た臼杵・国東の石仏・摩崖仏にはいささか食傷さえ感じたことだった。
国東の地形は航空写真で見るとよく判るが、東西三十粁南北三十五粁程のほぼ円形に近い半島の、中央部にそびえる両子山(七二一米)、文殊山から放射状に流れ落ちる谷(俗に"国東の二十八谷"と呼んでいる)の美事さには感嘆のほかないのだが、この谷と谷との間に、と云うか山と山との間の谷間に、と云うのが正確だと思うが、その昔、仏教文化の華が開いた訳である。
八世紀初頭、架空の人物仁聞(にんもん)菩薩により開かれ、およそ百年後、最澄の因縁から全山が天台宗に変って行ったものと言はれている。
総称「六郷満山」と呼ばれ、法華経二十八品にちなんで二十八山の精舎を、本(もと)・中(なか)・末(すえ)の三山組織により、六十五ケ寺に及ぶ寺々を系統づけ、又、法華経の経文の字数に準じて、六九、三八○余体の仏像をつくって祀ったものと伝承されている。
併しあのような谷間の場所(実数は二十八をはるかに超える多くの谷々)に、誰がなんのために寺院をつくり、仏像を祀ったのであろうか。
現地を見ても、話を聞いても、一、二の本を読んで見ても、どうも今だにスッキリとは納得致しかねている。ただ言えることは、宇佐八幡の存在と、その歴史的推移と云うものを解明しない限り、"国東の謎"はとけないであらうと云うことである。
併しここではこの問題に深入りすることは避けて、簡単にふれておこう。
奈良朝以前、豊国に宇佐八幡の前身たるヤハタ神を祀る「部落国家」があり、帰化人がもたらした辛国神と、更には大和から応神神を迎え、これらを融合して二大宗教王国」となって行ったのである。一方、伊勢神宮が天皇家の私的な氏神として成立していたが、ここに於て大和朝廷は宇佐のヤハタ神と伊勢神宮とを並べて二所宗廟として尊崇することになったようである。
全国の数多い神社の中で、地方の神社と朝廷とをつなぐ恒例の儀式は少い。その稀有の例が二つある。その一つは出雲大社で、宮司である出雲国造が新たに就任すると、必ず貢物をたづさえて朝廷に参内し、服属賀詞である「出雲国神寿詞」を奏上し、位などを賜って出雲に帰る儀式である。いま一つは宇佐八幡で天皇の即位とか、天皇又は国家に重大事が起ると、そのたびごとに天皇が宇佐八幡に対し勅使を立て、奉告とか祈願を行ったものである。これを「宇佐使」と称した由である。
このように宇佐八幡乃至豊国と云うものは、出雲大社乃至出雲国と並んで、大和朝廷にとって特別の存在であったと思はざるを得ない。
そろそろ際限のないおしゃべりも終りとせねばなるまい。
わが国への仏教公伝は百済から五三八年、欽明天皇の時とされているが、民間レベルではそれより早く、主として帰化人が持ち込む形で、かなり以前に伝来されていたことは隠れもないことである。
ここ豊国に於ても朝鮮半島をかけ橋として、中国の道教も、そして半島の民間信仰も入って来てをり、仏教は特に新羅からのものが伝来されていたと思われる。伝承の中ではすでに造立された寺があったとの早く六世紀頃ことである。
仏教東漸の歴史はインドから西域経由で西歴前後に中国へ、そして中国から朝鮮へは三七二年高句麗へ、三八四年には百済へ、更に新羅へは五世紀になって高句麗から伝はったと云われている。
それと前後してわが北九州へも仏教が伝来されていたと推察される。但し道教も俗信も共に混在していたに違いない。そこからスタートして宇佐のヤハタ神、八幡神宮、辛国神、応神神なども混淆し、恐らく宗派も何もなかったであろう。あるとすれば仏像と経文くらいが幾つか伝はっていたと云うことであろうか。そして国東の椀形にふさわしく、山岳仏教となり、修行のため修験道のための仏教が栄えて行ったものと思われる。
以上、多聞天の話から「牛のよだれ」のようにズルズルと途切れることなく、仏像、古代史.仏教などダラダラ話が続いて了った。この辺で終止符を打ちたい。
ところで来月は、私の背後には、静かに瞑想にふける太秦広隆寺の弥勤像の写真が飾られるか、それとも天平の美女、奈良秋篠寺の伎芸天像が現れるか、……心も新たに、自己を見つめ、周囲をあたたかく眺めやり、平穏な余生を長いつきあいの「パートナー」と共に送れればと願ってやまない。
諸兄の御健祥を祈ること切である。
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