1組 田辺 一男 |
一、 三十周年記念文集への寄稿文の末尾に私は『既に五十才を越し、在学時の願望の大部分はも早実現の見込なし。たヾ幸に残った元気でこれからでも何か出来ればと思っています。』と記している。早いものであれからもう十年。この間建設的なことがやれなかったのは心残りであるが、とに角元気で過せたのは幸と思っている。 卒業のその日の夜行列車で赴任した三菱重工業名古屋航空機製作所では天谷(章)、伊奈、大居三君と一しょで近くの発動機製作所には伊予田君が、金属工業所には野田(宗)君が居た。軍隊より一時間早く五時起床、日が暮れてから帰寮、大晦日も休みなしだった。 実働一ヶ月余で昭和十七年二月旭川北部九部隊(輜重兵七連隊)に入隊、零下三十度の日もある酷寒に鍛えられた際、森田三雄氏(昭十四・兼松江商)が隊付軍曹で居られて何かとかばってくれた。次いで九月からの経理学校(九期幹部候補生隊)では一橋同期が多く心強かったが、田中(林)、金井、松田三君と同区隊で五ヶ月起居を共にした。十八年一月卒業后被服本廠へ配属されてから札幌支廠へ転属迄の一年余は会計監督官だったが、正義感あふれる藤原裕中尉(昭十四、柔道部主将)に直接指導を受け、その上司には大尉の古川栄一先生(昭四)が居られて、経営学・会計学のゼミの観があった。厳冬の十九年二月赴任した札幌では重工でも同期の大居君(糧秣廠)が既に先着で同君には数ヶ月同宿させてもらったり何かと御世話になった。終戦を迎え大居君と話合って重エヘ戻らず数名の同年輩の仲間で材木屋を始め数年続けた。この間、五十嵐与三氏(故人、大三・大五専攻部・拓銀専務)、岡塚正雄氏(故人・大九・大十一専攻部・三菱銀行支店長)、佐野久綱氏(昭四.通産局商工部長)、萱野寿衛吉氏(昭九・拓銀部長)、今井道雄氏(昭十三・今井デパート社長)等の先輩に公私共ご指導を受けた。中牟田君(当時札鉄)にも国鉄切符入手難の折いつも助けてもらった。在札樽同期(池田武雄・中牟田・鈴木茂・早川・大居君等)の会を今井邸を拝借してやったこと、高瀬先生の参院選挙の際、大居君と手製の看板を街に立てかけて応援演説の手伝をしたこともあった。 大居君が期するところあって国税局に転じて后、私も身の処し方に悩んでいたが、前記岡塚先輩の御蔭で二十四年十二月三菱海運に途中入社が出来た。三十九年の海運集約で日本郵船に移籍、其后四十六年央、今の勤務先大洋商船に移ったが、塩見英次君がアジア石油から戻ってきたのと偶然同時であった。予科三年間一組ですぐ隣の列に席のあった同君と実に二十九年半ぶりで職場を同じくすることになったが、全く奇縁で、私にとっては何とも心強い限りであった。爾来十年余殆んど毎日顔を合せ何かにつけ御世話になり、又迷惑をかけている。 このように如水会の諸先輩や同期の諸兄の恩情に支えられて今日迄生きてこられたことを心から感謝している。 二、 残念ながら私には野球しか趣味がない。観る方はプロ・社会人・大学・高校と何れでもよく、一橋の試合も出来るだけ応援に行くことにしている。又、東都大学のことについては特に関心があり、『実力の東都』と言われていたにも拘らず、ここ二、三年大学選手権をとれなくなったので、歯がゆい思いをしている。 吾々の頃は東都大学は六校しかなかったのが、今では二十一校(一・二・三部が夫々六校、四部が三校)で、一橋は昭和二十二年に二部、二十八年に三部に陥ちた。その後三部では優勝したこともあったが、さらに四部へ陥落したことも数回あり、最近では三部の中、下位に低迷している。国立の大学でも例えば東大は合宿所を持ち、専任の監督もいるし、予算の規模・学生数(野球人口)なども多いのと比較し、一橋に多くを望むのは無理との見方もある。然し東大など今年は別として、例年でも東都大学の二部の下位、又は三部の上位ぐらいの実力は持っていると思われるところからして、一橋もせめて一頑張りして、三部での優勝位は果してもらいたいと望んでいる。幸に昨年からは、.大館氏(吾々の頃の慶応大学の名遊撃手)がコーチとして指導してくれてることもあり、可能性が大きくなってるようだ。 一橋野球部発足以来五十八年間、殆んど東大と試合をすることがなかったが、確か今迄三勝(昭和五年頃の練習試合・三十七年と五十四年の国公立大会)、一敗(四十四年の国公立大会)の筈である。なお吾々の頃は力は先方が若干上だったように思うが、十五年秋に六大学軟式リーグで珍らしく東大が完全優勝した際、そのチームにわが野球部有志が急拠軟球で挑戦し、塩川君の巧投もあって1−0で勝ったことが記憶に残っている。 野球を小学生から始めて今なお曲りなりにも続けられることは稀なことで幸と思っている。私は体力視力等に恵まれて居らず、正に『下手の横好き』の類であるが、年寄りの冷や水と云われようが、試合にあまり出してくれなかろうが、兎に角試合前の練習を主目的に出かけている。会社の若い人達が軟式でやるときもなるべく出場するし、OFBリーグの公式試合と年二回のオールドスターゲームには日本郵船チームで努めて出させてもらっている。 OFBLとはオーバー・フォーティ・べースボール・リーグの略で、加盟十八社(一業一社)、選手の年令制限は一般選手は数え年四十五以上、投手は五十才以上。春秋のニシーズン制で十八チームをOFBの三組に分け、夫々六チームが総当り五試合を行って順位をきめ次のシーズンは成績に従って組替えを行う。このリーグは昭和二十八年創設され当初は加盟数社の役員の懇親が主旨であったのが、現在では加盟各社の役職員のリクリエーションと親睦が目的になっている。新日鉄や日石等は殆んど全選手が後楽園の経験者だが、必ずしもこれらが勝つとは限らない。 不思議なことにこのリーグの代表者格は創設時より今日迄殆んど一橋出身者(野球部とは限らない)で占められてきた。即ち青木均一氏(故人・大正十一・元品川白煉瓦およぴ東電社長)・寺尾一郎氏(大十四・元三菱商事副社長)・本田弘敏氏(大十・元東ガス社長)・坂田哲夫氏(昭十三・品川自煉瓦社長)等である。 目下一橋野球部先輩の前記坂田氏が代表者格であると同時に創立以来唯一人全試合出場(五十七シーズン?)という驚異的記録を持ち、年令順で登録実働選手中四〜五番目(数え六十八才)の高令でありながら今なお殆んど全試合投手をつとめている。嘗ては三菱商事チームで小林(悦)・塩川両君も活躍していた。 私も現在登録実働選手三百数十名中年令順で二十五番目位になってしまった。もともと強くない肩、早くない足は更に衰え気味であるが、それでも節制これつとめて六十五才位迄は何とか続けさせてもらいたいと願ってる。 |