十二月クラブの皆様御卒業四十周年、誠におめでとうございます。
一口に四十年と申しましても、その間、幾多のきびしい山河を乗り越えられ、振り返って感無量の思いでございましょう。
主人較一も皆様と御一緒に、この日を迎えることが出来ましたら、どんなに嬉しかった事かと今更ながら残念でなりません。
主人の亡くなりましたのは、昭和五十三年四月十五日、桜吹雪が、はらはらと舞っておりました。
前々日まで会社に出勤していまして、その日は少し風邪気味で気分はよくないが行ってくる、と出かけましたが午後二時頃、青い顔をして帰って参りました。
「咳の為、横隔膜が痙攣していて右の脇腹が痛むんだ、少し寝ていればよくなるよ。」と、自分で診断を下して風邪薬を飲み横になっていましたが少しも快くなる気配が無いので、近所の内科医に往診していたじきました。結果はやはり風邪で、あたたかくして安静にしていればいいでしょう。あとで風邪薬を調合しますから取りに来て下さい。とのことでした。夜になってだんだん息苦しい様子が強くなり、大袈裟なことが嫌いな主人は、救急車を呼ぶのは厭なようでしたが無理に入院させました。もう夜八時過ぎていましたので、その時は当直の医師しかおられなかったため「明日専門の先生にどこが悪いかくわしく診断してもらいましょう。それまで点滴でつないでおきます。」と言われました。
それでも血圧が少しも上らず点滴だけではもたないので、輸血をして下さったり、強心剤を注射して下さったり、いろいろ手を尽くしていただきましたが翌朝七時半、急に容態が急変してそのまま息を引きとりました。
直接の死因は心不全ということです。
最後まで意識ははっきりしていて、七時十分頃に当時高校二年生だった末娘のことを心配して、「かおるはもう学校へ行ったかな」などと言っておりました。
入院する時は本人も、どこが悪いのか検査してもらう為に病院に行くのだと思っていましたし、家族の者もまさかこのままになってしまうなどとは夢にも考えていませんでしたので、あまりのあっけない死に本当に信じられない気持ちでございました。
主人は口数の少ない静かな人で、結婚三十年の中で大きな声で叱られたことも無く、夫婦喧嘩も一度もありませんでした。いつも暇さえあれば本を読んでいて、手持ちの残りのページが少なくたると次の本を何冊か買ってくるという調子でした。あとは碁とゴルフ、これもテレビを一人でよく見ておりました。
こんなに早く他界してしまうのなら、もっと自由にしたい事をさせてあげればよかったのにとか、ああもして、こうもしてあげたかったと悔やむことばかりでございます。
私達には娘ばかり三人で男の子がいなかったのが淋しいようでしたが、今一緒に住んでいます二女のところに、五才と二才の男の子がおります。生きていたら、男の孫二人を膝に抱いて好好爺ぶりを発揮したことでしょうにと、亦々繰り言になってしまいます。
主人の母も八十四才になり、リューマチで足が痛むので殆んど寝床の中の生活ですが、気持ちはしっかりしていて、較一の幼少の頃のことや商大に入学した折のことなどよく話してくれます。
女の子だけしか育てた経験のない私は、毎日元気な男の孫二人にふりまわされて、フウフウ言いながらなんとか暮しております。
主人が亡くなってからも、十二月クラブの皆様のあたたかい御友情をいつも身近に感じて有難く存じております。
末筆になりましたが、皆々様御体をくれぐれも、お大切に、若くして戦没なさった方々、また人生の航路途中で、はかなくなられた方々(主人も含めまして)の分も長生きなさって下さいませ。そしてこの四十周年に集われた会員の皆様が揃って、五十周年、六十周年のお祝いの席につかれますよう、心よりお祈り致しております。
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