1組  牧原 志郎

 

 私が、吉村冬彦こと寺田寅彦の随筆に、最初にお目に掛ったのは、中学初級の国語の教科書の中の作品であった。寅彦の藪柑子集の花物語のうちに、「凌宵花(のうぜんかづら)」と「常山の花」がある。内容はどちらも、寅彦の学童のころの思い出を綴ったものであろう。少年であった私の胸に、切なくなるほど懐しい、珠玉の文章であった。

 私は、この時の新鮮な印象を忘れ難く、後年、予科生のころから、主として岩波書店が発行した、寅彦の随筆の単行本を、古本屋めぐりを重ねながら、全部収集した。内容は元より、一つには手織もめん風の、ユニークな装釘に惹かれたこともある。

 寅彦の随筆の崇拝者は多いし、又そのグループもあるようだ。私は特に、晩年の昭和七年、中央公論に発表し、「蒸発皿」に収められた「鳥瓜の花と蛾」の内の、ほんの一章を、こにご紹介したい。

 「何箇月か何年か、乃至は何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮に鳥瓜の花に集まる蛾のように一時に飛んで来る日があるかも知れたい」・・・・・

 寅彦の愛弟子、中谷宇吉郎の随筆を読めば、寅彦には、一箇の憂国の士のおもかげが、うかがわれる。ちなみに、戦時中、私は中国に従軍した。大切な寅彦の随筆の小コレクションは、私の妹の手で八王子に疎開された。しかし、終戦直前の戦災で、「蒸発皿」一冊を残し、全部焼失した。昭和二十一年、復員して真先に妹から、この事を聞き、覚えず感情的になるほど度を失い、大いに落胆した。しかしこれは私の我儘と云うべきである。

 終戦後の旧蔵品の交流の激しい時機に、東京に居た私は、気を取り直し、間もなく、再収集に成功した。今日この頃、古本屋をめぐっても、寅彦の独特の単行本に、お目に掛ったためしはない。

 さて、予科、大学の在校中に、このように寅彦の随筆に打込んだ私であったが、同時に又、最も感銘を受けたのは、牧野英一先生の授業であった。
 刑法はおろか、民法の条文さえ、ろくに熟視したことのない私が、どうしてこのように牧野先生に傾倒したのか。
 今にして思えば、牧野先生の暖かいお人柄と、学問に対する純粋な熱情に魅せられたと云うより仕方がない。牧野先生は、やはり一箇の国士とも申上ぐべきご人格であった。

 私は、勤務先に復帰してからも、在学当時の牧野先生の印象と感激覚めやらず。記憶の薄れぬうちにと思い、産業機械工業会の機関誌「産業機械」の、昭和40年3月号に、「忘れ得ぬ人」と題し、B5版三頁ほど、牧野先生に関する思い出を書いて寄稿し、掲載していただいた。
 牧野先生の随筆「パンテオンの人々」のうちに次の一文がある。

 「誰やらの書いたものに、田舎の子供が東京へ来て、東京はつまらないといったことが書いてあった。何故つまらないかとたづねたら、東京には鯉がいないからだと答えた。それで肴屋から鯉をとり寄せて、俎の上に載せて見せたら、そんなものは鯉でないといったそうである。その子供の鯉というのは青い森を意味し、赤い鳥居を意味し清らかな流れを意味し、白い小石を意味するのである。その鯉というのは大きな、ひろびろとした、複雑な意外な一種の背景を予定しているのである。法律家というものは、とかく子供の心を知らないで、俎の上の死んだ鯉を鯉だとひとり合点している。」

 私はこの一文を拝見し、ふと冬彦集の「田園雑感」のうちの一章を思い出した。

 「六つになる親類の子供が去年の暮から東京へ来て居る。これに東京を国とどっちがいいかと聞いて見たら、おくにの方がい」と云った。どうしてかと聞くと『お国の川にはえびが居るから』と答えた。」

 以下の内容は、牧野先生と同巧異曲である。
 私が書いた「忘れ得ぬ人」は、一つにはこの「鯉」と「えび」の相違について、牧野先生に事の出所を直接お尋ねした事を、書いたことであった。

 私の随筆が「産業機械」誌に載ったころ、牧野先生は未だご存命の筈と合点し、これを郵送申し上げた。直に、牧野先生から葉書で、ご返事をいただいた。大分ご苦労の上書かれたあとのありありと感ぜられる葉書の状態であった。

 拝受拝見 切に感謝申上ます 老病仰臥 眼辛うじて明暗を弁じ 右腕まひ 筆心に任せず いづれ委細申上げ 暫時御猶予ねがい上ます 敬
    四〇・四・六

 しばらくして封書のお便りを頂戴した。それは次の通りである。

 四〇・四・一二
 (略) 様  侍曹  英

 拝啓。
 毎日気にしながら今日になりました。延引多罪。わたくしは眼が殆ど見えません、臂もおもうように動きません。大部分は仰臥生活。わたくしはかぞえとしの八十八になりました。医者は老病いたし方なしといいます。しかし、時あって少し読みます。ヨーロッパからのたよりがあるのでありまして、彼地では稀にわたくしの論文を問題にしてくれます。また動もすれば書きます。が、要するに、法律を出てません。筆が動きません。
 小平での法学通論をおもい出しました。あなたのお蔭でいろいろた懐かしさに堪えません。村の鯉と俎の鯉とのはなしは、法学通論でありましたやら、法律思想でありましたやら。
 寺田君の随筆との関係の質問を受けたことを、明らかに記憶しています。それがあなたでしたか。おなつかしいことに存じます。寺田君の随筆のことは忘れましたが、いずれ上手に書いてあったでしょう。わたくしはおなじことを考えていたようですが、わたくしのはぎこちない法律論であったのです。寺田君とはおなじ一八七八年生れで、帝大の食堂でのはなし相手でした。今やすでに亡しです。 憶。
 法律思想の講議では、わたくしは立派な学生を有っていました。試験の成績が殆ど全部優であったので、教授会の問題になりました。当時の人人から今もなおたよりを受けることがあります。みんな立派になっていられます。その級は、商大のエリートぞろいでありました。あなたは、わたくしの講議につき、いろいろのことをおぼえていて下さるので大に恐縮です。その頃の教授食堂が大におもしろいことでしたが、当時の同僚、今はすべて故人になられました。
 あなたの文章に挿入してある写真はわたくしの手蹟にちがいなし。これもなつかしいことです。あれからあなたは早めの卒業につどいて出征。わたくしは間もなく病気。商大の方は名誉講議ということになりました。
 あたたは無事おかえりになりましてまことに結構のことに存じ上げます。この上とも十分御自愛のほどを祈り上げます。わたくしは、あれから大病また大病でしたが、奇蹟的にたすかりまして、今では海村で静かに神の召しを待っています。あなたの御好意には全く感激しました。さらば御きげんよう……御清安を祈り上げつ上、敬。

 先生のお便りのうちに「寺田君とはおなじ一八七八年生れで、帝大の食堂でのはなし相手でした。」とある。
 私は、因縁のふしぎさに、撲たれずにはおられない。
 切に思う。牧野先生は、その言動と文章とを問わず、例えて失礼ながら、五月の空に、へんぽんとひるがえる鯉のぼりである。人間味にあふれ、溌剌として生きの良い先生は、稀に見る学識と人生の達人であられた。寅彦にえびであったのが、先生には鯉であって、誠にふさわしい。
 私は、予科の法学通論で「諸君に将来、物事をなす場合、「プロスペクティヴ」(展望的)であるか、「リトロスペクティヴ」(回顧的)であるかを考えると良い」とひとこと云われたことも、忘れ難い一事である。

 私は「忘れ得ぬ人」のうちに、太平洋戦争開始の五日前、「法律思想」の最終の講座で、ご著書の一つに、卒業に際し記念のお言葉を書いていただいたことを書き及んだ。この本も奇蹟的に戦災を免れ、私の手許にある。

 抑々生命とは価値を求むるの義である。価値を理解すること、これを認識という。価値を追求すること、これを努力という。この認識を確実にし、この努力を真摯たらしめるところに、人としてのわれわれのはたらきが成立すべきである。 英

 私の行住座臥、「抑々生命とは価値を求むるの義である。」のお言葉が、つね日ごろ、稟々として私の耳朶を撲っている。

以上    昭和五十六年五月二十四日、脱稿

 追 記

 昭和四十五年四月二十二日、私は青山斎場で、先生のご遺影に一片の花を捧げ、又ご遺族席に至って、私の「忘え得ぬ人」のコピーを謹呈し、引下った。
 会葬御礼の葉書には「学者として多くの方々のご理解とご援助をいただき幸せな一生を過し九十二歳の天寿を全うし……」とある。
 その時はさほどでないのに、年を重ねるにつれ、先生とのご対面は、私にとって、一期の一会事であった事が痛感されるのである。

 今回の文集の企画により、私の積年の思いが果され、諸氏の前にご披露できる機会を与えられた関係者の方々のご苦労に対し、厚く御礼申上げる次第である。

 


卒業25周年記念アルバムより