今年は十二月クラブ会員にとって、母校卒業四十周年という記念すべき年である。そしてこの年を迎えていろいろの記念行事が計画されている。
一口に四十年といえば簡単だが、期間としても相当の期間である。しかもその中味たるや、時期が時期だけに公私にわたって波乱万丈であったといってよいであろう。往事を懐うて感無量といっても決して誇張ではないであろう。
茫々たる往時を見はるかせば、先づ瞼に浮かぶのは懐しい級友達の顔である。小平の森に集まったときは総員四十一名、戦時中に亡くなった者六名、最近十年間に倒れた者六名、現存二十九名ということになる。亡友十二名、いずれも懐しいが、特に最近十年間に去って行った級友の思い出は未だ新らしい。四十周年を機会に彼等の眠るお墓に詣でることにする。以下はそのときのメモから摘記したものである。
四月十三日(月)曇後雨
午後鶴見総持寺に赴く。総受付にて麦倉家墓地をたづねる。大祖堂裏手の五院左4である。高さ一丈にも及ぶ立派な墓石が際立っている。墓石の背面には麦倉君の法名(昌雲院善覚泰順居士)と並んで令夫人の法名(永昌院温林妙貞大姉)も見える。墓前令夫人の心情を偲べば、今にも泣き出しそうだった空から雨が落ち始める。
法名のふたつ並びて春雨(あめ)に濡る
四月二十八日(火)晴
風薫る快晴の好天気。午後巣鴨白泉寺の池田君のお墓に詣でる。令息俊雄君が五十一年に建てたお墓は未だ新らしく、墓地のしつらえのすべてが初々しいのが妙に印象的で悲しみを増す。
薫風のこ二にも吹けよ友の墓
四月二十九日(水)晴
午後永福町理性寺の諸橋家のお墓に詣でる。西永福の駅から近い街中ではあるが、かなり大きなお寺で墓地も相当広い。長閑な午下り、境内は静寂そのものである。昭和三十八年七月諸橋君が御尊父のために建てたお墓のようである。
春昼や亡夫をまつりし子も眼る
五月十一日(月)曇
新宿発小田急「あさぎり3号」にて御殿場に向う。正午少し前駿河小山駅にて下車、車で富士霊園に赴く。途中、富士国際、富士小山等ゴルフ場が多い。約二十分で霊園入口に到着。構内七十万坪とか、そのまま車で三区二号三〇四八の橋本家のお墓に詣でる。生憎の曇り空のため富士の姿は見えないが、広大な裾野のスロープを背景にした霊園は、折からの新縁につつじの花の鮮やかな色が映えて絶景である。
青葉背につゝじは燃えて君眼る
駿河小山駅から松田を経由して小田原駅に着く。城祉公園を過ぎて早川口の報身寺の高木家のお墓に詣でる。波打際まで二、三百米の静かなところだが、近くを西湘バイパスが通っているのは残念である。浄土宗の静かなお寺の一隅に、約二十年前に建てられた高木家のお墓が静まっている。いつも若々しかった君が今こに眼っているとは信じ難い思いである。
潮の香に導かれ来し報身寺
逝く春や君はいま専修会仏の世
このようにして亡き級友のお墓に詣で合掌するとき、この胸中を去来する思いはいろいろである。六十才前後の働き盛りに早々と逝った級友への悲しみはその最大のものであろう。いわゆる無常迅速についての歎きである。と同時に無常に直面したとき彼等がどのような心境一死生観ーで対処したかを確かめ、知りたいという思いが湧いてくる。そこに安心があったかどうかといってもよいであろう。「生れ生れ生れ生れて、生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終りに冥い」(空海)がわれわれ凡夫の運命だからである。
もちろん亡き級友から今その答えを期待することはできない。徒らに墓前に佇むのみである。ただ言い得ることは、多感な青春時代に広く悩み深く考えたこれら亡き級友は、無常に直面したときそれぞれ自分なりの死生観をもってこれに対処したであろうということである。そしてその内容はともかく、自分自身の死生観を持つことは、既に逝った彼等よりも現に生存を続けているわれわれにとってこそ重大な問題であるということである。
先か後かの違いはあってもいづれは散る定めにある木の葉であるとすれば、既に先に散った木の葉の冥福を祈るとともに、自らも散るという定めに深く思いをいたすということであろう。
終りに有名な古歌を掲げ、重ねて亡き級友の御冥福をお祈りしたい。
明日知らぬ わが身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ 悲しかりけれ
貫之
末の露 本のしづくや 世の中の おくれ先立つ ためしなるらむ
僧正遍昭
あとがき
故野田宗造君のお墓にも詣でたいと思っていたが機を逸した。他日を期したい。
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