1組 村井 秀雄 |
私は同期生と同じく昭和十六年十二月に第二次世界大戦の影響で本来なら昭和十七年三月卒業の処所謂繰上げ卒業し昭和十七年一月八日に三菱金属(株)……当時は三菱鉱業(株)……に同期生八人と共に入社しました。同年二月一日には東部第十八近衛連隊に入営し一週間後宇都宮東部第四十四部隊(輜重兵)……現在は作新学院校舎が建っています……に転属となりその後幹部候補生として輜重兵学校……現世田谷大橋……で六ヶ月の教育を経て見習士官となり宇都宮の原隊に帰隊ここで三ヶ月の短期速成初年兵教育の教官を二回担当彼等を北支へ送り出しました。 宇都宮時代は学生時代に馬術部の関係で親しくして頂いた鈴木丹氏(昭和十四年立教卒、現東鋼商事社長)が担当教官であった関係上特別の御引立を頂いたし、パンドン時代は太田寿吉先輩(昭和九年卒現日本ラジエーター社長)や岡島四郎先輩(昭和十三年卒現日本金属工業相談役)或は久内患先輩(昭和十五年卒現日本化成社長)の特別の御配慮を頂き一般的に物資不足の戦時中にも不拘好きな酒にもこと欠なかったし同期の水田洋君にも種々と御世話になった思い出が今でも浮んできますが何といっても中隊長とLての万一の場合には天皇陛下の為め喜んで死ぬのだと常時教えていた関係上終戦時の身の処し方には一番苦慮致しました。死を回避日本へ帰る決心のつく迄の数日間が夢のようです。私はこの時思想的懐疑もなく純粋な軍人になり切っていたのだと今でも確心しています。 昭和廿一年十月より三菱金属営業部に復社し超硬製品の西独DEW社との技術提携や国内での販売網作りに力を尽し三菱金属の加工品の発展の一翼を担わせて貰いアメリカ、カナダ、ソビエット、北欧四国、ヨーロッパ諸国、スペイン、オランダ、オーストラリア、南ア、等海外へも前後三回出張させて貰う等苦しかったりつらかったりしたこと等は凡て忘れ楽しかった会社生活のみが残りました。三菱金属(株)そのものがアットホームな会社であったことも会社生活を一層楽しいものにしてくれたと思っています。昭和五十年六月に加工品本部長(常務)を辞任し現在の菱光産業(株)に勤務することになりましたがこの会社は従業員三百名年間売上げ四百五十億円(五十五年度の配当一割二分)の三菱金属(株)の子会社中唯一の商事会社です。今はこの会社の二部上場を一日も早く実現さすことに全力投球中です。家族は長女節子が嫁ぎましたので(全日空勤務慶大工学部卒井上公夫君)私と妻(蔦子)と長男俊一(阪大工学部卒三菱金属大井製作所勤務)の三人暮しですが長男が結婚すれば夫婦二人丈の生活になるわけです。あと何年か先には会社生活とも別れる時が来ると思いますがそれ迄は精一杯今の仕事に打込んで二部上場を果し株主や親会社及び従業員の期待に応え度い心境です。幸い長男も私が親会社に在籍していた時と同じ仕事を販売する立場と製造する立場との違いはありますがやっておりますので私の会社生活が終った後でも何にかと共通の話しが出来ると思っています。只残念でなりませんことは恩師吾妻光俊先生が亡くなられたことですがその弟子の蓼沼教授が若くして学長になられたことは吾妻ゼミのOBとして大いなる誉りに思っております。吾妻先生が存命なら如何に御喜びになられたことだろうと心残りでございます。 しかし年一回の吾妻先生の奥様を囲んでの集りがありますが……この会は光睦会と呼ばれています。光は吾妻光俊の光で睦は奥様の御名前の睦子の睦を頂いて名付けられたものです。尚私の長男俊一の名前も吾妻先生の御了承を頂いて先生の御名前の一字を頂いて名付けました……この会丈は出張その他会社の仕事をやりくりし今の処オール出席です。 これに反し唯今は嘯風会(一組のクラス会)には出来る丈出席させて頂いておりますが十二月クラブの方はさぼってばかりで申訳なく存じております。何れ十二月クラブのあり方等も納得の出来る時がくるものと思いますがその節は宜敷しく御願い致します。又ここ数年の間に馬術部で一緒に過した三宅麦倉の両君や嘯風会の池田、橋本、諸橋君等、親しくしていた人々が相次いで亡くなられていますがここに衷心より御冥福を念じつつ御遺族の皆様の御健勝を御祈りする次第です。振返れば"あっと"云う間の四十年でした。 |
卒業25周年記念アルバムより |