十二月クラブ・ホ−ムペ−ジを空けたときのBGMが 一橋会歌 のメロディ−です。
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2組  鵜澤 昌和

 いま僕の手もとには、戦争中も疎開荷物に加えて大切にして焼失を免れた、一橋関係の歌を記した小冊がある。それをひもといて、格調高い歌詞を見、メロディーを口ずさめば、四十年前のさまざまな思いが去来し、云い難い懐しさに満されるのが常である。どういうわけか、僕は予科時代の思い出の方がより鮮烈によみがえってくることが多い。

 多摩湖電車、商大予科前駅、まだ新しかった一橋寮の室のこと、国分寺のそば屋、向島艇庫とクラスチャン(コックスをやらされて敗戦を味わった)、最初の予科祭の飾りつけなど、とりとめもない思い出が限りなく去来する。さらに教室の思い出となるといっそう懐しい。杉浦先生のスイス・アルプス登山ばなし、習字の杉山先生と珠算の川村貫ちゃん、英語は長身、パイプのスマートなスピンクス、陰気なタイスリッジ、ラテン型のラッソー三外人から、古瀬良則先生、トマス・ハーディの西川先生、キプリングの中村為さん、ドイツ語の吹田、神保、町田その他の諸先生、太田、岩田、金田のさん田トリオによる簿記、論理の太田ベクさん、山欽さんの高等数学(山田先生には後に青山学院での同僚?として大変なご縁ができることになった)、谷川教官とカーキ色の教練服のこと(これを入れたひも付きの袋がどうしても見付からず、教練の時間に間に合わたくなってあせった夢をなぜか数回見た)などすべてがつい数日前のことのように鮮かに思い出されてくる。そして、もっと真剣にドイツ語をやっておけばよかったといったような淡い悔恨も思い出の中に織りまざってくる。もちろん、予科のことだけがよみがえってくるわけではなく、ゼミナールのこと、ゼミの恩師増地先生のことはもとより、学部二年九ヶ月の思い出もさまざま去来するけれども、不思議と予科時代のことがいっそう鮮烈である。

 学部といえば、学生食堂のカレーの味だとか、キャンパスの外れの運動場の近くにあった写真部の部室での昼休みの光景、三商大写真展のためのさまざまな苦労と喜びなどいっそうとりとめのない思い出が多くなる。とくに学部一年の春、毎日新聞社と満鉄がスポンサーとなり、東京大学写真連盟が主催しての日満支親善学生カメラ使節団に二年先輩の原鉄三郎氏(后に戦死)と参加して、他大学の人々と満支を写して廻った思い出など、どちらかというと学外でのことが多く思い出されるけれども、これらは学友諸兄にはあまり興味がないことと思う。教室での講義については、僕の場合予科時代ほどの強い印象は少ないのは、戦争の足音などが近づいて来て社界の情勢に多く気をとられるようになったためかも知れない。それでも、中山伊知郎、杉本栄一、井藤半弥、高瀬荘太郎、上田辰之助、太田哲三、田中誠二、常盤敏太、吾妻光俊、山中篤太郎、佐藤弘などの大先生方の講義や、深見義一、松田竹太郎、伊坂市助など兼任講師の方々の個性温れる講義はそれぞれに鮮かな印象を受けた。そして、例えば佐藤弘先生の商品学では消費組合のプリソト作りのアルバイトをしたので特別な思い出があるというように、各先生それぞれに格別の感憾もあるけれども、やや私的なこととも思われるので触れない。

 このようた断片的な思い出話を書いていたらきりがないのでやめるとして、僕に思い出をよみがえらせてくれる「反魂香」の役割を果している大学の歌を、次に少し記しておくこととする。多くの学友諸兄がおそらく歌詞を所有しておらず、そして正確には憶えていないと思うからであり、多分誰にとってもその一節を口ずさむことが若き日の思い出をよび起すきっかけとなるに違いないからである。
 (この文集の巻頭か巻末に学校関係の歌が掲載されることと思うが、たとえば一橋会歌などはその全部が掲載されないこともあると思われるので、ともかくもここに手許の古い歌詞を記すこととした。)
 

 予科の歌(大正十二年 本田 実 作)

  一、 君よ知れりや東の 黒潮めぐる島が根は丘とことはに青くして 野に讃春の唄たかくうら若き子の住むところ

 二、 ふりさけ見れば碧万里 橄欖かほる南欧に 伝説栄ある城荒れて いたましいかな高楼に 歓楽の声は絶えにけり

 三、 またはラインの水暗く 岸辺の山草血ぬれては 雨粛条の音も細く 怨はながしゲルマンの 壮図も今は空しくて

 四、 タクラマカンの大沙漠 嘗て胡北の驕児が 夕陽に面をそめにつつ 豼貅つらねて廻りけむ 豪快さの跡まぼろしか

 五、 興亡すべて一篇の あやなす詩にも似たる哉 あわれうましき東の しのゝめ映ゆる島の野に 昌平久し二千年

 六、 されどさかし若人に あふるる血潮あるものを あゝいつまでの太平ぞ 暴風よ雨よ吹きすさべ この乾坤も裂くるがに

 七、 叡智と野望をしるすなる 黄金まぶしき神杖を かざしの楯に彫りこめて 起たば暗明はらふべく しばし曠野に苦をなめん

 八、 鳥は緑蕪の地に下る 石神井原の夕まぐれ 梨園に花の白き時 一盞春をかなしめば 湧くは三歳の奢り歌

  一橋の歌 (酒井敬三郎詞、山田耕作曲)

 一、 空たかく光みなぎり 照り映えてさゆらぐ公孫樹 白雲の湧きたつところ そここそは輝く聖地

 これぞこれわが母校懐しのふるさと その名讃へてここに集いつ その名ささげて永久に変らじ あゝ一橋われらが母校

 二、希望燃え生命あふるゝ 若人が赤誠き力に 建て築き継ぎきし誇り そは高く輝く文化 (以下前同)

 三、 われ愛すいまぞ輝け 力充ち真溢るゝ 意気の児が栄ある行手 ヘ ルメスの導く学府 (以下前同)

 

 一橋会会歌 (明治三九年 中田左三郎作)

 (上) 
 玲瀧高き仙嶺の 千秋の雪影きよく 渺茫ひろき大瀛の 萬古の流色ふかし あゝ正大の気凝りて 美はしきかな秋津洲
 その雄麗の影涵し この秀麗の色うけて 烟波漲る三千里 海路の果は遠くとも 浪の行方は我船の 旗翩す地たらずや
 萬里を翔くる暁の 風南清の野に荒れて 朝日かヾやく楊子江 江上の浪躍るとき 翻へるわが商船の 日章旗など勇ましき
 千里に亘る夕暮の 雲北米の山を罩め 夕日まばゆき金門に 紅蓮の色の浮ぶとき 翻へる我商船の 日章旗など麗はしき

 (中)
 釈迦を出しゝ海南の 印度の末路今如何に 孔孟立ちて道説きし 中華四億の民如何に 法燈うすれ聖教の 道長へに空しきか
 アリアンの族ならずんば 基督教徒ならずんば 二十世紀の文明を 語るを得じと誰か言う 見よ向上の旗あげし 秀麗の国秋津洲
 起て我大和民族よ 東亜の空にそそり立つ
 仙嶺の雪戴いて 建国爰に二千歳 今こそ立ちて我族の 使命を果す時は来ぬ
 孤島に踞して大平の 春を唱ふるものや誰ぞ 見よ南海の浪高く 絶東方に多事の秋 われ起たずんば大局の経綸誰か語り得む
 幽冥の霧吹き払ふ 風に嘯くマーキュリー
 その大旆の指す処 正義の光照りそいて人種の差別茲に絶え 宗派の異同茲になし
 渾沌の雲吹き払ふ 風に嘯くマーキュリー、その大旆の指す処 平和歓喜の色みちて 園に不断の花の香や 空に無窮の月の影

 (下)
 長煙遠く棚引きて 入相の鐘暮れてゆく 隅田のながれ夕潮に オールを軽く浮ばせて 秋西風に嘯きし その豪快のあとかたや
 あゝ一っ橋空高き 母黌の春の朝ぼらけ 銀杏の梢青葉して 若き光の冴ゆるとき 梧桐の蔭に語らいし その歓楽のあとかたや
 瘴煙こむる南洋に 暁天の星さゆるとき 寒嵐むせぶ西比利亜の 荒涼の月仰ぐとき 思いを馳せて一つ橋 母黌の姿君見ずや
 狂欄山と湧くところ 清き理想の海原に 希望の星を涵すべく さらば我共諸共に 蚊竜の意気胸にして いざ雄飛せん五大洲