2組 折下 章 |
”三途の川”の岸辺には閻魔大王がいて、一人々々現世での行状について訊問すると謂う。”えんま帳”にどのように書きとめられ、どのように採点されて、地獄へ突き堕されるのか、将又極楽行きの切符を手に入れることが出来るのか今から窺い知るべくもないが、冷汗を流しながら一生懸命答えての話である。 第一話 夜が明けてみたら冬の低い、淡い朝陽が列車の進行方向とは逆に、後の方からさして来た。睡け眼をこすって、目を凝らして見ても間違いない。列車は一体どっちへ向って走っているのだ。線路の蛇行だってある。暫くは様子をみょうと、初期ショックを敢えて払い除けてみた。が所詮は無駄なことだった。列車は短い冬の日を一日中西へ向って走り続けた。一九四五年暮れ、シベリヤ鉄道を西へ西へとひた走る貨物列車内でのことである。戦争は終ったのだ。我々の輸送はソ連が担当してシベリヤ経由かも知れないが、免も角日本へ帰るのだと当然のことのように思い、念じていた矢先のことである。 輸送されている梯団は総勢一五〇〇人。軍の骨幹と自他共に許していた機械化砲兵の精鋭は、二ヶ月程前に武装解除されて今や無惨な丸腰姿である。急激な情勢の変転の中で、期待が微塵に打ち砕かれた衝撃は表現のしようもなく大きかった。 列車は数日間走りに走って、とある湖畔の炭坑町に着いた。湖を土地の人々は"グゼノオーゼル"(鴨の湖)と呼んでいた。驚いたことに我々一五〇〇人をそっくり収容出来る真新らしい土中半埋没型のバラックが建っていた。肩を落として悄然と歩む集団は早くも正に捕虜になり切っていた。無理もないが本職軍人は役に立たなかった。結局は日頃何かにつけて娑婆気が抜けないと譏られていた市民出身の将校団を糾合して立った。五年かかるか、十年になるか解らないが、何んとしてでもこの一五〇〇の人々の命を守りたい、生きて母国の土を踏ませなければたらない"と。 それから四年、マイナス五〇度Cということもあった。飢えと望郷の妄執(望郷とは我々日本人にとっては限りなくうるわしい感覚だが、大陸民族にとってはそんな生やさしいものではないことがはじめて解った)に苛まれ、労働の重課に喘ぐ兵達(いや、人達)を護り、そして励げまし続けた。今から振り返ってみれば、あの制約された身分でよくぞ怖れを知らない、勇気ある交渉を収容所当局に対Lて強行したことよと思う。任務意識と若気が然らしめたのか。 四十七年早春(丘には雪がなかったが、湖にはまだ氷が浮遊していたように記憶する、五月の終りか六月の始めか)帰還第一陣五〇名程を収容所から送り出した。嬉しかった。限りなく。どうやってこの喜びを表現したらよいのか解らなかった。独り収容所の土屋根に上って、四粁も五粁も見渡せる原野を行く人々が豆つぶになってやがて消えるまで手を振りつづけた。 次々と帰還者を送り出し、そして又一冬を越して四八年秋には残った人々全部を送り出した。(あとで判ったことだが一部は途中で道草を食わされたらしい)気がついてみたら、数名と共に俊寛となっていた。しかし、満足感で一杯だった。解放感に浸ることが出来た。と同時に、こんどは自分自身が望郷の念に駈られ始めた。小平の森の夕陽にサッカーボールがキラッと輝いていた。国立の松林の中の兼松講堂や図書館塔が瞼に浮かんできた。母や妹(奇態なことに斯ういうときには女どもが出てくる)が枕辺に立った。そして五〇年に故国の土を踏んだ。 閻魔さま、私がハバロフスクで、CCCP体制へ何故洗脳されなかったのかとか、どうして当時もっと家族持ちの人々の気持を掬んでやらなかったのかとか責めないで下さい。洗脳されるには、一橋では不勉強でしたがそれでもインテリ過ぎましたし、独身だったからこそ出来たこともあったのですよ。まさかそんなことで地獄へ突き堕すのではないでしょうね。 第二話 「なに!三〇万屯でなければ認可しない!?」 原科ナフサも、国内リファイナリーからの供給では必ずしも充足されないが、海外に依存すればどうにでもなった。原油はバーレル当リニドル、ナフサはキロリットル当り六千円(今は五万〜六万円)の時代である。打ち出されたガイドライン(政策)に対しては、可能性を具備して如何ようにも対応出来た。描いた絵には若干の無理はあっても、当時の諸与件と、国民経済伸長の期待の中では、逐次解決され得るものと考へていた。 この時、誰が第四次中東戦争、それにつづくオイル価格の暴騰ショックを予測し得ただろうか。(予測したとあとから云う者がいる。私はその人を蔑む。) そんなとき三井グループ第三のエチレンセンター、ペトケミコンプレックス構築のチームメンバーに指名された。定年まであと数年、化学工業に憧れて入社してから二十五年、男冥利につきる最後の仕事が決ったと思った。国民経済を支える産業基盤造りの一翼を担うことが出来る喜びに、意慾を燃やし、活発な行動に参画した。四十五年二月オイルショック。コンビナートの一角にある一二〇米高のフレアースタックからは、スタート時のオフグレードガス燃焼廃棄の焔が轟音と共に吹き出した。コソビナートのスタートに「万才」を叫んだ。 所要資金は約七百億円、現在の工事費に換算すれば二千億円近くにもなろうか。企画段階におけるFS、実行段階における資金調達と夫々賦課された任務を略完遂した身として、顧みて感無量であった。 閻魔さま、「何故そのときやがてアラブの神々が暴れ出して、お前達の計画が甚だしい困難に逢着することに気がつかなかったのだ。」と叱らないで下さい。その不明故に今又次々と来襲するオイルの紅蓮の炎の中からフェニックスの如く立ち上る役目も担はされています。まさか、そんな不明を責めて地獄へ突き堕とすようなことはしないでしょうね。何ですって、「今が地獄の責苦と思え!」「ハイ」 第三話、第四話……休題。 第十話 何回目かの合理化の計画当事者となり、密かに案を練っているうちはまだ良かったが、いざ実行の段階となって、去り行く人々を送り出すことになると如何にも佗しく寂しい。いつ何時わが身に降りかかるか判らぬことである。いざとなったらテントを張ってでも親子四人住む処が要ると手当した土地が今居る座間である。これより近い所には手が届かたかった。結局テントを張らずに済んで、それから数年後にはプレハブではあるが家を建てて住むこととたり、早やくも十年となった。この間に、息子達は学校を了えて、いづれも平凡な勤め人となったが、以前彼等からは「何故こんな遠いところに住むのか」と随分文句を言われたものだ。その後どうやらおやじの実力の程が解ったらしく、賛沢を言わなくたった。今、窓の外に目をやるとつゆ空の下に紫陽花や百合や、しもつけが雨滴をのせて美しい。この庭園?を勝手に"野生園〃と名付けている。隣の谷から楢、櫟、ぽけ、にしき木等雑木を手当り次第移植した。新緑のときはきれいだが、夏には生い繁って少々欝陶しくなって来た。野草も採って来た。春蘭、えびね蘭、山ゆり、りんどう、ほととぎす等々。放っておいても季節には夫々目を楽しませてくれる。それでも雑草園になっては見苦しいので、除草に精を出さなければならない。狭い庭に這いつくばって、一生草むしりに逐はれる愚者と疑す向きもあるが、私は大好きだ。全身汗まみれになる快感はとてもゴルフなどの比ではない。それにあの無想の境地に浸ることは何んとも云えない。かっては休日の昼食は泥靴のまま軒下でということだったが、実のところ近頃めっきり労働力が減少した。 数年前までは妻と籠を下げて芹摘みをし、山うど、たらの芽採りをし、螢もいた西隣りの谷に、今は高層マンションが建って、螢のみならず丹沢、箱根、北伊豆の山々の景観をも失ってしまった。しかし自分だって移住民族なのだから、あとからの移住者に文句の言えた柄ではない。それでも秋冬の澄んだ空気を透して展望される山々は駅までの十数分間に目を清めてくれる。 毎年正月三日には阿夫利神社に初詣をすることにしているが、そのとき大山の頂から丹沢の重畳と連らなる山並みを望んで、来るべき尾根歩きのコースを偵察する。過ぐる年の晩秋に小ザックを背負って、人の少いコースを選び三峯東嶺をたずねた。落葉に踵を埋めながら辿った屋根にはりんどうが咲き乱れて爽かだった。それでも妻は途中が余程難儀だったのだろう、一三五〇米の頂上で独りでヤッホーと叫んでいた。引っ張り上げられた妻がこの頃は健脚となり、こっちが休憩を申入れるようになった。 冬になると駅から東へ向う家までの夜空にオリオンが輝きはじめる。帰宅の早いときは低く、晩いときは高い。どういう訳かこの三ツ星を見ると、世のこと人のこと、諸々の気懸りなことが脳裏を去来する。と同時に無窮の星空を仰ぐと、片々区々たる妄想から離れて悠々と生きたいと想う。 閻魔さま、こんな風な生き方では合格しないでしょうか。今はやりのマイホーム病に罹ったと見ないで下さい。あなたも御存知の"三世の縁〃を大事にさせて下さい。そして"座間の休日〃の楽しみをお許し下さい。 閻魔さま、一話から十話まで、小心ものがビクビクしながら一生懸命答えました。どうでしょうか、及第点がいただけるでしょうか。極楽行きの切符をお願い致します。 |
卒業25周年記念アルバムより |