2組  川崎 文治

 

 

 最近はというか、やはり一九八○年代はというか、歴史的、社会的意味をもち、また間題を投げかけることがらがずいぶん多い。
 この原稿に向っている時点に近いところだけでも、ローマ法王パウロⅡ世の訪日、ポーランドの独立自治労組(マスコミなどでは「自主管理労組」といわれているが、原語にあるという「独立」ということが重要であろう)のワレサ(これも原語の発音ではないようだ)委員長の来日や工場の見学、そしてその間のローマ法王の暗殺未遂事件、アメリカ原潜のあて逃げ、フランスのミッテラン政権の誕生、さらに御承知のとおりの、"alliance"、"introduction"、"transit"をめぐる、文字どおりimplicit-explicitな解釈の闘いなどなど、おかげでわれわれの脳細胞の老化を防ぐような材料には事欠かない。しかしわれわれの限られた能力では、それらのすべてをカバーすることは出来ない。とくにお互いの年代になると、洪水のような情報源の中から適宜の選択をするということが、脳細胞を含めて、全体存在のために必要であろう。そこで私はここではポーランドにおける新しい社会主義への挑戦といわれる「独立・自治労組」をめぐる問題など、それもどちらかといえば周辺部分を探ってみようと思う。

 ポーランドといえば一九七三年の初夏、滞在中の東ドイツからはじめてワルシャワを訪れた時のいろいろな想い出は今でも鮮やかである。既に御存知の方も多いと思うが、あの有名な"alte stadt"の素晴らしさは暖かい豊かな感懐にひたらせるに十分であった。リューベックやブラッセルの"Marktplatz"の与えるものとは異った起伏とスケールと、どこかダウンタウン風の人なつこさを感じたものである。当時は戦禍からまだ完全には修復されてはいなかったが、もう一度たずねたい第一のところである。もちろん東ドイツマルクは西独マルクの三分一でしか両替えしてくれないとか、市内の中央部で雨が降り出したので、手あたり次第に飛込んだホテルで、先ずフロントの女の子が、こちらのドイツ語に対して、"Please in English"といったのは意外だったが、これはドイッとの歴史的関係から、双方ともわだかまりのあることが段々とわかってきた。ところでそのホテルで何はともあれ汗を流したいとバス付の部屋を頼んだのだが、案内パンフレットには何と"Erste Kategorie"と書いてある。カテゴリーという言葉をこんな処にも使うのかと思いつつ、早々と裸になってバスに入ってみると肝心の栓がないではないか!
 さてメイドを呼ぼうにも裸ではあるし、それに「栓」という単語が分らない。仕方なくタオルを詰めて横になったことであった。街に出ると東ベルリンと違って、女性の化粧も派手で、濃い口紅やアイシャドーが目を引いたし、恐らくウォッカの故かと思われる酔っばらいのジグザグ歩きも、そこが共産圏だという意識が強過ぎたからでもあろうか、意外な気がしたものである。しかし何といっても人間観としては、ポーランド滞在のビザが切れる夕方の出来事を忘れることはできない。その飛行便で東ベルリンヘ帰らねばならぬし、共産圏でのビザのうるさいことは十分知らされていたこともあって、覚えたばかりの「空港行」という方向指示のバスに飛乗ったのである。ところがしばらく走っているうちに郊外の農村地帯に入るのである。往路と完全に違う。そうか循環バスの遠回りの方に乗ってしまったのだと気付いた時はもう遅い。やむなく次のバス停で降りて逆行することにした。ところが次の時間が分らない。中年の男と女の二人がじっと待っている。段々と焦慮と心配が募ってきて心臓が高まってきた。二人に飛行機の出発時刻までに空港に行かねばならぬことを分らせるのが大苦労だった。英語もドイツ語も通じない。それ以外はこちらで用意がない。本当に必死で両手を拡げて翼よろしく飛ぶ恰好をしたりしてやっと分ってもらえたらしい。男の方が切迫した事情をのみ込んだのか、しばらくして通りかかったトラックをとめて交渉してくれた。見守っていたらOKらしい。早速礼をいって飛乗ったらすぐUターンして空港へ急いでくれた。塔乗手続は切れている時間だったが、とにかくあり合わせのコインを礼にやって別れ、スチュワーデスに強引に頼んで乗り込むことができた。そしてホッとするまでの興奮がおさまるとともに、あのバス停の中年の男、そしてトラックの運転手の親切な行動に胸が一杯になったし、もっと御礼をすべきだったのにと後悔も覚えたのである。あの車が来なかったら、と今でもドキリとさせられる。車の少ない共産圏の田園での、暖かい人情の一コマであった。

 どこの国でも表と裏がある。一九八一年六月現在、ポーランドは七月に予定されている統一労働者党の臨時党大会をめぐって、内外からの大きな試練の渦の中にあるようだ。そこでの政治的駈け引きの内容はよく分らないし、今それを詮索するつもりもないが、すべての問題の根源といってよいのはあの「独立・自治労組」を中心とした動きであろう。「暑いポーランドの夏」と称せられた一九八○年八月の歴史的な政労交渉、そして八月三十一日の劇的な政労合意の成立、その過程には、そしてその結論には実に多くの問題が含まれている。それはいかなる人、いかなる角度からも取り上げとり組まれるに値するものをもっているように思う。「白い社会主義」とか、「ヨーロッパコミュニズム」ということが、西側諸国で、とくにフランス、スペイン、イタリーそして日本で論議され、政党綱領の問題ともなっているようであるが、共産圏ポーランドにおける展開にはそれなりの生々しさと緊迫感がある。ここでは断片的な側面を綴ってみたい。三八歳のヒゲの男ワレサというのは年に似合わずーーという認識は古いかもしれないがーー包擁力と忍耐と、卒直さと駈け引きにたけたリーダーとみえた。いわゆる「連帯」(ソリダルノスチ)ということについては、周知のようにフランスにおけるソリダリズムの古い歴史がある。しかし今ポーランドにおける労組(農民組合を含めて)を基盤にし、軸とした「連帯」の概念は、むしろそれをもって真の社会主義の在り方としようとする論理と熱情と行動をもって裏づけられているし、いいかえれば新しい社会主義としての連帯主義の大いなる試行として意義をもつものと思われる。そしてそのために「独立」が先ずは条件となり核心となるのであろう。またその連帯の底にあるものとして、極めてあたり前のことながら「人間尊重」というものが強く感得され、又主張されることに注意したいと思う。ワレサ委員長が、松下電器の工場や新幹線の管制室などを見学して、「なる程すばらしい能率だが、どうも労働者は"働かされている〃ように感じるし、人間のためにあるべき機械にむしろ使われているように思えてならない」という趣旨のことを云っていたが、誠に卒直でそのとおりだと思う。有給休暇もとり難いような息のつまる職場であっては、決して世界に誇れる「大国」とはいい得たいであろう。日本人の真面目さ勤勉さの中に、何とかもっとゆとりが欲しいと思う。そしてそれにはやはり人間尊重と連帯という二つの柱に支えられた「社会」への展望と建設への意欲が望まれようし、そこにこそポーランドに学び注視する意味もあると思う。
 また日本のある民放局で「暑い夏」の政労交渉のフイルムを放映したが(ワレサ委員長も日本ではじめて見たといっていた)、交渉中断中の度々の敬虔な、ミサにみる「連帯」の大きな宗教的要因、そして八月三十一日の政労合意の歴史的瞬間に、双方とも一斉に立ち上って国歌(それはポーランド分割を嘆きつつも、統一的意志を確認し合う趣旨のものらしい)を斉唱していたシーン、これらは日本では先ず望みえない情景であった。
 宗教的違いはともかくとして、たとえば大きな団交の妥結に当って、日本では国歌がどれだけの役割をはたすものであろうか、またそのような時に唱われた国歌をもっていることの素晴らしさなど、いずれも感動を覚えながら切実に我が身、わが国が顧みられたのである。そしてわが母国日本の、本当に心よりの豊かさを切望するものである。