2組  古田土昌久

 

 三十周年論文集以后

 人生僅か五十年、外天の中に較ぶれば、夢まぼろしの如くなり、滅せぬもの上あるべきやと謡われた時代から考えれば、日本人の生命は何と延びた事か、現在は何歳から老人と云うのか定義がよく分らない。六十歳を還暦と云い、六十五歳を超えて始めて熟年と云う人が多い。我々如水会十二月クラブのメソバーも既に還暦は超え、早熟年の人も多い。
 茲に四十周年記念論文集の発行に当り、その後の小生の生きざまを、年々の挨拶状、年賀状を取りまとめて見よう。

 (1) 昭和四十八年四月

 「お知らせ」
 桜の花も散り、ゴールデソウィークを前にして、労働組合関係の春闘、特に国鉄を主体とするストライキのため、連日通勤に悩まされて居りますが、元気に働いて居ります。本年四月より、当家の家族構成が変りましたので、御知らせ申し上げます。

長女 久枝 四月中旬、楠井康雄と結婚、都内大田区に在住
次女 佳子 三月大学卒業
四月都立杉並高校奉職、保健体育教諭となりました。
長男 昌敏 四月東北大学工学部、機械工学科入学
目下仙台青葉城下に下宿
主人昌久、
妻美知江
変化ありません

 (2) 四十八年十二月

 「喪中に就き年頭の挨拶失礼申し上げます」
 本年九月母ヤス(寿貞浄安信女)八十一歳の天寿を全うして、大往生、服喪して居ります。小生の最も敬愛する母を失ったことは、ショックでしたが、本年は当家に取って、よいこともありました。子供等に就ては嫁した長女は明年春、母親になる予定、次女は高校教諭ですが、目下良縁募集中、長男は東北大学工学部で仙台止宿中です。明年は「寅年」現役から予備役年齢になって参りましたが、暴虎馮河の突進は止め、健康に留意して、社会人として、更に一段と努力する積りです。

 (3) 昭和五十年元旦

 あけまして、おめでとうございます。
 総需要抑制、不況倒産、世界的なインフレーションと私生活も社会的にも悩まされた年も明け、新らしい兎年を迎えました。「二兎を追う者は一兎をも得ず」と兎と亀の競争でも亀が勝つ様ですので、私生活も、社会人としても、飛びはねて大怪我をせぬ様、亀の歩みで、今年も歩きたいと思います。
 幸い家族一同元気です。嫁した長女にも娘が生れ、祖父年齢となりました。次女は良縁募集中です。長男は仙台に下宿、東北大で、機械工学の勉強をし、夏冬には帰省して居ります。

 (4) 昭和五十一年元旦

 明けましておめでとうございます。
 本年は辰年ですので、昇天の龍に因んで、大いに張り切りたい処ですが、不況に終始した昨年から、本年も減速下の経済界では特に暴走を避けたいと思います。
 幸ひ家族は元気ですが、長女(久枝)は嫁した大田区在住の楠井康雄家で、本年は小生の第二の孫誕生予定。次女(佳子)は昨年十一年、柿添賢之(都立立川高校教諭)に嫁し、長男は仙台に下宿、休暇に帰省して居りますが、常時は妻と二人で旧婚生活をエンジョイして居ります。

 (5) 昭和五十二年元旦

 昨年九月下旬、脳血栓(脳卒中)にて倒れ、東京医大病院に入院加療、十月下旬より伊豆熱川温泉病院にて、リハビリテーションに努めた結果、現在は通常の歩行に支障無い処まで漸次回復して参りました。
 本年は巳年ですが、年頭に大目標を挙げて龍頭蛇尾に終るより、本年の目標は健康回復と、完全社会復帰を目指したいと考えて居ります。

 (6) 昭和五十三年元旦

 明けましておめでとう御座います。
 古文書に日く「いにしへの人言わずや禍福は糾へる縄の如しと、人間万事往くとして塞翁が馬ならぬはなし」とか。
 一昨年は脳卒中の大病を致しまして、健康の大切さを痛感させられた次第ですが、毎年馬齢を加えて、何時の間にか孔子様の言う「不惑」「知命」を過ぎ「耳順」の年齢に近づきましたが、凡庸の身で却々達観の境地に到りません。
 不況に明け、不況に暮れた昭和五十二年も会社はまづまづの成績で終りましたが、本年は減速経済の渦中で、業績の見透しは困難です。
 午年と申しましても、却々ウマイ話は無い様ですから、本年は地道た努力を続けて行きたいと考えて居ります。
 幸ひ嫁した長女は女児の孫二名、次女は男子の孫一名計三名の孫の構成になって居ります。

 (7) 昭和五十四年元旦

 明けましておめでとう御座います。
 徳川家康公は「人の一生は重荷を負って、遠き道を行くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思へば不足無し」と言って居りますが、私も馬齢を重ねて、何時の間にか「不惑」「知命」を過ぎ、本年は「耳順」即ち還暦を迎えることとなりました。本年は羊年で、私の年でありますが羊腸の難路に逆らわず「羊頭を掲げて狗肉を売る」様な動き方をせず、じっくり六十年の人生を振り返り、今後の在り方に処したいと、願って居ります。
 幸ひ家族は元気で外孫が三人、長男も、そろそろ嫁を迎へることになるでせう。

 (8) 昭和五十五年元旦

家族構成 


 明けましておめでとう御座います。
 昨年五月に長男昌敏が結婚して、都内の2DKの家に新居を構えましたので、小生宅は妻と二人だけの生活になりました。三年前脳卒中で倒れて以来、鋭意リハビリテーションに努力した結果、日常生活は通常人と変りない処迄回復致しました。
 会社の方は昨年三月末、代表取締役を退任し、「顧問」として後進の指導に当っております。昔の大宮人の言う様に「花鳥風月を友として、詩歌管弦の道にいそしむ」生活態度も、却々困難で、「小人閑居して不善を為す」と言う言葉が、実感と言へます。
 家族構成右記の通り
 

 (9) 昭和五十六年元旦

 明けましておめでとう御座います。

 1. 昨年六月長男夫婦に男子出生(大と命名)元気に成長して居りますが、嫁した長女、次女の処で孫が夫々二名宛、孫が計五名になり、時折遊びに来る孫等の成長を楽しみに暮して居ります。
 2. 本年は酉年で、小生の健康状態も危機を過ぎ、通常人並みに回復して参り、月間一〜二回ゴルフコースヘ出て健康維持に努めて居りますが、今年は一ラウンドで一つの「バーディー」を狙って行きましょう。
 3. 晴耕雨読と言へば、聞えは良いが、兼好法師の徒然草の「つれづれなるままに、日ぐらし硯に向いて、心に移りめくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」同様書きしるした雑文がたまり、考へて見れば鶏肋ばかり、何時か取りまとめたいと考へて居ります。

 三十周年記念論文集に「私の履歴書」を記載して、其の后の十年間は私に取って如何なる歳月であったのでしょうか。要約すれば次の二項目になると思う。

 (1) 社会人として
 住友グループ(化学・重機・商事)三社の出資によって設立された住友ケミカルエンジニヤリソグ株式会社に出向を命ぜられ、赤字続きで企業の存続が危ぶまれていた時、再建に努力、昭和五十年には業績向上し、黒字会社に転換、創立十周年パーティをパレスホテルにて開催、株主得意先を招待し、法人税を払い、株主に対して配当を行い、経営者として悪戦苦闘の末の責任を果し得た最も充実した十年であった。不幸病魔に倒れ、後進に道を譲ったが、企業は其の后順調に発展しているのは望外の喜びである。
 二十周年記念行事を行う日も近い。

 (2) 個人として
 私的には妻との間に一男二女を授かり、此の十年の間に子供等の教育を終り、夫々良き配偶者を得て、立派な社会人として活躍している現状に満足している。昭和五十六年春の時点で五人の孫に恵まれ、時折遊びに来る孫の相手をするのは亦楽しみなものである。
 目下和漢の書に親しみ、企業の社史にあたる回顧録等を書いている。昔から好きであった漢詩の真似事で会社の創立十周年に創った漢詩(と言えるか如何か)を茲に記載する。

  『題壁』
臥薪嘗胆堪褒貶
苦節十年実宿願
徹少数精鋭経営
期企業基盤確立
昭和五十年九月   昌久

 脳卒中で倒れ、病院や温泉病院で療養中はイライラが激しく、妻に当る事が多かったが、妻の懸命の看病で、三途の河から現世に戻って来る事が出来、立派な妻に恵まれたことを感謝している。病後妻を伴って、十二月クラブの海外旅行ーーカナダ横断旅行。ギリシャエーゲ海の旅(含ヨーロッパ)に参加して、多少でも妻の労苦の罪滅ぼしが出来たと喜んでいる。
 五十周年には又何か書きたいと思う。

 


卒業25周年記念アルバムより