2組  中島 義彦

 

 昭和十一年四月予科へ入学して漸く中学時代の上級学校受験を目的とした勉強中心の、いうなれば抑圧された生活から解放された感が一杯であった。そこで何か青春時代を大いに謳歌し、且又何か自分なりに意義ある生活を送ってみたいという殊勝な動機から陸上ホッケー部を選んだわけである。当時陸上ホッケーは日本では余りポピュラーでなく、それだけにズブの素人から同じスタートラインで始められるということ、そして又一橋がホッケー界の名門でその年行われたベルリンオリンピックに七名の先輩諸公が代表として参加しているということもあって、一も二もなくホッケー部にとび込んだものである。それから約六年間勉強が目的かスポーツが目的かと自分でも首をかしげながら結局ホッケー生活一筋にやって来て了った。スポーツをやる以上は矢張り勝ちたい、勝たねばならぬということで、このため他に倍する苦しい練習に耐え、勝てば単純に喜び、負けては泣く程に口惜しがり、時には丸坊主となって再来を期するということも何度かあったが、何れにしてもそれなりに若く感激性に富んだ生活を送って来たものと思う。真夏の猛練習、名古屋、関西遠征、合宿生活、シーズンオフの楽しさ等今でもついこの間のことのようになつかしく思い浮んでくる。時にはスティックを持つてグランドを走り廻る夢を見ることもあって我ながら呆れることもある。よく学び、よく遊べという理想的な形とは決して言えないが、団体スポーツを通じ人の和、チームワーク、相互補完の大切さ等いろいろの教訓が後々の自分の生活に随分役立ったことだろう。


 予科入学の翌年日支事変勃発、段々に戦時色濃厚となるのだが、まだまだ自由主義的な生活を十分堪能出来たものである。然し昭和十六年最終学年となってからは遂に学生の最大特権である徴兵延期も文科系学生は剥奪され、逆に三ヶ月繰上げ卒業させられるということで、我々の大部分は卒業、そして就職から日浅くして軍務につき、大東亜戦争にはせ参ずることになったわけである。軍隊生活最初の二年間は内地勤務であったが、戦況日増しに不利となる頃外地転属を命ぜられ、昭和十九年二月佐世保から船でグアム島に向ったが、航海途中トラック島行に変更となり、グアム島に一時寄港の後トラック島に赴いた。当時グアム島は海軍警備隊が駐屯しており、飛行場も二ヶ所建設中であったが、内地に近いせいもあり第一線からまだ程遠い基地としてノンビリした生活ぶりに見受けられた。ラバウルが無力化して以来トラック島が第一線基地となって了い、それだけにグアム島残留が望ましい気持が正直の処強かったが、この四ヶ月後のグアム、サイパン玉砕を思うと人間の運命は全く分らぬものと痛切に感じたものである。トラック島はその頃米機動部隊に徹底的に叩かれた後で、基地としての機能を殆ど失いかけていたが、更に今述べたグアム、サイパン陥落するに至って完全に孤立無援の島と化し、その後は唯ひたすら生き永らえるための自給生活を強いられたわけである。トラック島在勤約二年、この間海軍警備隊全員の糧食確保のため、専ら甘藷作りに精を出したものである。一方戦局は益々我に不利となり、実力の相違をいやおうなしに認めざるを得なかったが、何かまだ奇跡を信じ日本が負けるとは信じたくない心境であった。そして遂に敗戦、何かホッとした気持の反面、何か目標を失い一時呆然自失という処であったろう。よく死なないですんだというのが実感であるが、食糧不足の中で結局最下級の余り頑健でない補充兵が栄養失調で死んでいったことは紛れもない事実であり全く気の毒に耐えないところである。トラック島での体験も又団体生活での規律、人の和、統率力、率先垂範といったものの重要さを痛感させられたものである。


 昭和二十一年二月真夏の島から真冬の久里浜に復員、無事故国の大地を踏みしめた時の感激は今でも忘れ得ぬものがある。○昭和二十一年トラック島から復員、早速会社へ帰還の挨拶に赴いたが、当時会杜としても終戦後のドサクサで将来どうたるか分ったものでたく、どこか他に就職先があればどうぞそちらへというツレない話で、出征の時無事戻ったら必ず会杜に復職するという誓約書に判を押さされたこともあって甚だカチンと来たものだが、適当な働き口がすぐあるでもたし、どうやら会杜に舞い戻ったわけである。何れにしても入社後一週間そこくで軍隊に入った身であれば、四年間の空白は如何ともし難く正に新入杜員さながらの右往左往のていたらくであった。713二十二年大阪へ転任、独身の故もあって大いに自由を謳歌したものであるが、何としても物資不足の時代、特にアルコール類の入手もおいそれとは行かず、而も下手すれば失明も免れないアルコールの脅威に曝らされたがら38よくまあ無事に酔いしれて来たものである。統制経済のもと会杜のためにヤミ商売も屡々やり危い橋を渡って来1たものだが、よく働き、よく遊んだという実感と同時に酒、麻雀に没頭しすぎた反省が残っている。二十四年五月結婚、二ヶ月後九州へ転任したが、.二間しかたい社宅でのママごと生活を堪能するどころか、むしろ会杜関係のつき合いと称して取引先、友人、先輩、部下の連中との飲み食いに明け暮れて新婚生活を随分犠牲にしたものと後悔している。その後東京、四日市、九州、そして又東京から名古屋へと移り変り四十九年漸く東京に定住することになったわけである。その間引越、娘の転校など何度も繰返えしたものだが、いつも女房にばかり負担をかけて了い、私生活面ではさっばり役に立たたい落第亭主といった処で、親孝行を十分出来なかったこと併て後悔ばかりが先立つ昨今である。幸い娘も嫁に行き孫も一人生まれて、夫々に平穏無事に暮らしておるわけであるが、特に自分もあと何年生きるか分らぬし何とか自分なりに有意義た生活を送りたいと考えている。当面杜会奉仕などと偉そうなことはやめて、女房を対象とした家庭サービスにこれ努めることを念頭においておるが、それには先ず家庭外での酒の飲み過ぎをコントロールすることから始めたければたらないと自戒しておるところである。