2組 光永八太郎 |
四十周年記念文集の原稿のノルマは二百字詰用紙に二十枚以上となっている。筆不精より書く事の好きでない小生、役目上書いた事は書いたが、あまりわかりきった事をぐだぐだと書く気にもなれず僅か四枚。あまり少く気がひけるので、思いついたのが『仕事の話』。といっても決して仕事への心構えとか何とかの恐れ多いお談議でもなければ回顧録でもない。 三菱電機に入杜神戸製作所購買課鉄鋼係に配属されたのが三ヶ月の実習後の十七年四月。注文書の書き方から教えられ第一回の注文書作成の為に廻付されて来た購買請求券。おどろいたのがその品名『チー』『L棒』とある。物の本によると日本文化の成立が外国文化の吸収によるところが大きく、それに加え外来文化を日本語で表現出来るところが大きいとある。その典型。『チー』は英語のT、『L棒』はやはり英語のELBOWでガス管の継手の類。諸兄がガスエ事でご覧になっていると思う。寸法の表示は粍サイズで統一されてあるのであまり苦しまなかったが外部と折衝の時若い番頭さんーー故意に番頭さんたる語を使った。近代化が進んでいなかったのか大手商社の人を除くと三菱に出入する人は番頭さんという感じの人が多かつたーーの時はそうでもないが、年配の人と話す時とか先方の店に行った時JISの呼び方では素人扱された。例えば『二十五粍の棒鋼』では駄目で『インチマル』=『吋丸』と呼ばねば一人前扱されない。之などまだよい方で四十四粍の丸鋼を『スンシマル』と呼ぶ。まるで魚屋の符牒だ。『スンシ』とは「一寸四分』の事。何が一寸四分かというと四十四粍は三十二粍プラス十二粍で一寸四分というわけだ。型鋼にしても『六粍×五十粍の山型鋼ではだめで『二分二吋のアングル』と呼ばねば馬鹿にされる。 しかし番頭さん悪い面のみでなく良い事も教えてくれた。鋼材はほとんどが単価が瓩乃至屯当の重量制の為重量計算が必要だが標準寸法には重量表があるが中間寸法の場合比例計算をすれば簡単に出るが鋼管だけは出来ない(嘘だと思うならやってごらんなさい)ところが某番頭さん実に早い、正確である。 外径 a ・ もっとも小生が今に記憶のあるのは『二四七』が小生の電話の所内番号であったからである。 終戦昭和二十年八月十五日迄は物資の統制は法令、現物共に軍が握り所謂『闇』は実質的にはさておき形式的には何等かの手を打ってある(軍の証明とかお墨付とかとにかくゲタを他にあづけてある(のであまりやった感覚はないが終戦後二、三年間は公然であり法令を意識していたら公私共に生きていけなかった。昭和二十五年頃迄の闇華なりし頃は購買課の小生の処へは毎日二、三の話は持込れた。 防止方法の第一は現物の確認。あたり前の事のようだが売主から当方への間に何人も入るのが普通の其の頃ではインチキなのが多く話丈のやつは現物が見せられず又現品自身変なのが多い。電機メーカーのみ消費使用する硅素鋼板なる特殊の鋼板がある。之が戦中戦後不足し鵜目鷹目。現物があっても一屯二屯が常識の時に三十屯あるという。 第二は何千万円(当時の価格で)であろうと現金を用意する故現品を当方の指定場へ持込めと契約する事。所謂CODである。これなら引っかかる事まずない。盗品でない限り他人のものは動かせないからである。引っかけるつもりで来るやつはまだ良い。困るのは引っかかっていてそれを知らずを売込み(仲介乃至転売)にくる連中だ。当時軍の物資等の公的処分機関に鉱工品貿易公団なるものあり、そこのやり方は話がまとまると納税令書の如き形式の四枚つづりの書類を先方が発行。代金を納入するとその中の一枚が荷渡指図書となり現品を引取りに行く仕組。ある時その四枚組の書類を持参、之で鋼板が何組買えるという。処が普通なれば支払命令の分に『経理担当……』と名前があるのに業務担当官……とある、変に思い公団に電話すると該当者はいないとの事。持参したやつがすでに引っかかっているのである。説明理解させるのに一苦労した覚えがある。 戦中戦後の闇はなやかなりし時代も終り昭和三十年四十年となるのに相かわらず欲の皮のつっぱったお伽話がある。大体五、六年おきに新聞に出るのでご承知の方もあると思うが.『山下将軍の金』という話である。前述した様に当時は小生市場あさりをやり金属類の市価とか情勢は多少くわしく又購入量も比較的多い為当社の購買には有像無像、マトモなの、インチキなの、色々の種類なのが集り連中同志で取引する程であった。その中のあるオッサン、小生のある事をえらく買かぶり色々と相談にくる。こっちは茶話ぐらいで相手になり取引は一回もしなかったが何回も来たところを見ると多少は小生のコンサルタント話が役に立ったらしい、ところが話がだんだんエスカレートして二十七年頃と思うが.『光永さん山下泰文が比島に大量の金を埋めてきたという情報があるが』ときた。それで小生は『オッサンそれはよせよ。そんなのはあるはずないよ』と返事した覚えがあるがそのオッサンその後死んだかあらわれない。話は五、六年おきに出る。おかしくてしょうがない。何故なら新聞に出た話で数量が明記された事が一回もないからである。 |
卒業25周年記念アルバムより |