2組  村上彌寿夫

 

 今日では、還暦などといっても、何という事もない。只、六十歳の馬齢を重ねたという丈の事かも知れない。しかし振返ってみれば、忘れられないことが、いくつかある。その強烈な想い出に、スポットライトをあてると、その他の想い出は、色あせて影がうすくなる。

 予科時代の寮生活は格別に楽しく、適当に不真面目で、適当に真面目な当時の毎日にはなつかしい想い出がいくつかある。例えば、南寮できいた、依光良馨先輩の体験談などは、真面目な方の想い出として今も鮮烈に記憶にある。

 戦後内地に帰還、上京して半年もたつた頃か、昭和二十三年の夏頃、茅場町で三組のU君にバッタリ出合った。彼に、ヤアと声をかけると、私に答礼して、顔を挙げた彼は、私にどちらさんでしたか、といった。帰国そうそうで、私が一体どこで合った人間であったのか彼には一瞬見当がつかなかったのである。

 大学/暫くの職場/軍隊(内地・学校・野戦)/捕虜を通じて、いろいろな体験をしたが、私自身にとっては、太平洋戦争、とくに、敗戦後の三ケ年の体験は、六十年余という、今日までの人生の中で、その期間以外の体験の、何十倍もの重さがあって、その重圧は、ずっしりと重い。それは今から、三十数年前の事である。その中の、いくつかのことについて、以下、メモ書きしておく。

 (1) 昭和二十年九月六日ソ連軍が越境、満洲国に浸入したのは、斉々哈爾市の部隊食堂で知った。その直後、部隊は南進を命ぜられ、哈爾浜へ向ったが、南行する軍用列車に、手を振り、日の丸の旗を翳して、私達、軍隊を見送った多くの市民の顔を、私は今でも忘れる事ができない。

 (2) 翌朝、哈爾浜に着いた。大使館へ連絡をとる為に新京へ向って脱出しようとしていたソ連領事を追って、憲兵がピストルを発射するという事件があった。それから八月十五日になる。関東軍北正面を受持っていた第四軍と第二方面軍の司令部や兵姑部隊その他が、哈爾浜郊外に集結していた。更に転進、長白山系方面へ向う為である。その時、一人のソ連人が、この集結中の部隊の大集団に向って、ストイ(止れ)をか汁た。それは数日前に日本憲兵に追われた哈爾浜駐剳ソ連領事であった。その一声に武装した日本軍の大部隊は何一つ抵抗する事ができなかった。敗戦という事実を知ったその時から、その事実を知ったそのことによって、彼等は鳥合の集であったのである。第一次大戦中捕虜となったドイツ軍部隊について語ったルーデンドルフの言葉を更めて思い出す。

 (3) 以後、関東軍は武装解除を待つ身となる。私は斉々哈爾撤収以後、中国の桂林作戦に参加したあと、丁度ソ連軍の満洲侵入直前帰満して来た熊本編成の野砲隊の連中と親しくなるが、生き残って帰ってきた彼等は、底抜けに明るく健康で、毎日を生きる態度はまるで早瀬を競ってさかのぽる若鮎のようであった。哈爾浜の一小学校でのソ連軍の武装解除も待っていた或る朝早く、野砲の発射命令を下すするどい声が、校庭一杯に広がったと思った瞬間、大きな爆発音がした。三門の野砲に若者二人が組をつくり、二発の弾を逆装填して、一人は、砲身に跨りもう一人が引金を引いて六人が自殺した。
 我々の軍の経理部長(主計中将)が私達隷下部隊の主計将校に対して、日銀券、満銀券などの保管紙幣を焼き捨てよといって来たのもこの頃のことであった。むろん私は実行しなかったが、この局面でそれなりの権力の座に坐っている人間の判断とか始末の仕方とかいうものと、一般大衆のそれとでは随分違いのあるものである。南満の某航空軍の参謀長は、このころ、家族を連れて既に飛行機で内地へ脱出していた。

(4) 武装解除された私達は、豊田のトラックの新車数台をつぶして、哈爾浜からようやく東満の阿城に到着、海林では、いよいよ金網に囲まれた生活に入ることになるが、桂林から帰った野砲の連中とはここで再び同居する。彼等は、満洲から桂林までの作戦を、往復共馬と徒歩でやって生きて帰って来た連中だから、自決した連中と同じように健康で意気軒昂だったが、私達と違って彼等は、その戦歴から理解できるように、衣服には事欠いたし、何よりも日銀券は、おろか満銀券も持ち合せなかった。金網の中の生活だから、食事はぶっつけられると怪我をする程重く、ふすまの一杯入った黒パソの配給が少々あるにはあったがとても充分ではない。蛇を取って食べたりもしたが、どうしても、金網の外側にやって来る満人の物売に少なからず依存することになる。通貨は満銀券で充分であった。ところで、元気旺溢、食欲旺盛な彼等はどうしたか。彼等は満銀券などと比較にならない程大型で真新しいしかし満洲では通用する筈のない銀行券とも軍票とも区別がつけにくい代物を白昼堂々と使って、満人から金網越しに餅やぎょうざの類を買いとった。通貨が通用するのではなく、人間の側の気力迫力が通貨を通用させたという外はない。

 (5) バイコフの「虎」で知られる東満の深い密林を抜けて二十年十一月三日、国境を越え、ウオロシロフに着く。女の駅員が列車のボルトの具合を調べるため、柄の長い金槌を手に、歌をうたい乍ら、われわれの貨物列車の側を通り抜ける。
 これから約一ヶ月のシベリヤ鉄道による俘虜生活が始まる。それは内地や満洲国内に残して来た家族への一杯の不安を一人一人が心の中におしかくし乍らのわれわれ日本人で満席の貨物列車の俘虜行であった。外はもちろん零下数十度、白がいがい。人々は始めはウラジボストックヘの帰路にあると信じようとしたが、しかしイマンを過ぎると、次はハバロフスクから北上、コムソモルスクを経由の帰国の道があると強いて思おうとした。しかしその何れでもなく、ウラルを越えて、ボルガ河を渡った私達は、モスコー東南の捕虜収容所に入る。粉雪がさんさんと降り、冬の欧州ロシヤの午後はもう暗かった。暗い冬を越し、漸く春まで生きのびた頃、シベリヤ鉄道の俘虜行の途中、脱走を試み、失敗した若者二人が太ももを切断、いざり姿で捕虜生活をしているのを見た。二人の脱走の狂気があの時にはうらやましく思われたが、今不具のその二人の若者の姿をみて、彼等の前途に只感傷的になるのみであつた。

(6) この冬はきびしかった。身心共に疲労困憊、ようやく手許に残った一枚の毛布と、外套と先に収容所に着いていた友人のわずか一枚のうすい毛布で、夜は二人でだき合って眠ることでやっと越冬した。ある日吹雪の舞う野天の大便所で大勢が並んで用を足していたその中へと、うしろから飛鳥の如くとびかかってきた者が、しゃがんで用便中のその一人の帽子をさらって吹雪の中へ遁走した。帽子を盗った者は、しゃがんで用便中のためにプロテクトできない状態の彼を狙ったのである。ところで帽子は何故盗まれたのか。どうしてこんな盗まれ方をしたのか。
 この事件があった数日前の日の未明のことである。いつものように、ボーチカ(丈の高い大きな樽)に一杯入れられた収容所内の食事を二人で担いで運搬しようとして炊事場から一歩出ようとした処の食事係(むろん捕虜である)のボーチカの中から、ホカホカと湯気を立てる温い力ーシヤが、暗闇の中に待ち伏せて機会を狙っていた男に、飯盆でたっぷり一杯分もって行かれた。重いボーチカを棒で担いでいるため食事運搬係は、その男を取り押えることも詰問することも一切できないまま、咄嵯の機転で、後棒がやっとのことでその男のかぶっていた帽子をつかんだため、帽子だけが食事運搬係の手の中に残る結果となつた。この時こうして帽子をとられた男は、帽子をもたないことが力ーシヤ泥棒の証拠となることを恐れて、前記の飛鳥の技を披露するに及んだ次第であった。
 帽子を盗ったもの、盗られたもの、カーシヤを盗ったもの、盗られたもの、がきびしい俘虜生活を必死に生きようとしたのである。そして、私達捕虜生活の中で、帽子を大切にして帽子を持たぬものが当時殆んどなかったという事実は、そこに尚軍隊生活が保たれていたことの一つの証拠である。ソ連側からは、だからアクチーフを養成して日本人捕虜を再教育することの必要性とある種の意義があったのである。

 (7) 大きなラーゲルには、日本人だけでなく、またドイツ人やイタリア人ばかりでなく、ヒットラー親衛隊のオランダ人、ベルギー人、ポーランド人などの外にアメリカ人もいた。そして、人種が異っても、毎日が空腹との闘いであった事については彼我の間に違いはない。
 ある日バターが収容所に到着した事が伝えられた。収容所の真中にある本部を中心にその両側を仕切って、ドイツを主としたヨーロッパ俘虜地区と、日本人のそれとがあったが、この話を聞いて双方は、バターの増配を要求すべく交渉団をつくって収容本部へ出向く事になった。ついては双方共、夫々にそれなりの手土産を用意して行ったわけだが遺憾乍ら話は不調に終った。談判破烈。ドイツ側はそのままくるりと踵を返し、自分達の地区へ帰っていった。ところが我方はどうしたか。持参した手土産1おそらく女房の和服のようたものを取り出して、責任者の若い下士官(この下士官はその後間もなく少尉になった)に「今度は駄目だったが今後共よろしく」と差し出した。その申出に若い下士官は、顔をあかくして、手を出しかねたがそれを説得、手土産を受取るように日本側は丁重に慫慂した。彼は顔をあからめ乍ら、それを受取り礼をいった。このストーリーの中からドイツ人と日本人の違は明らかだが、ドイツ人と闘い、ドイツ人やフランス、イギリスの文化を師表として来たロシア人と私達の違いとある種の共感とが、くっきりと浮び出ているようにも思われるのである。

 (8−1) 病院での話、
 二十一年の初夏、四十度近くの熱を出して入院した。その際、松岡洋右の子息が入院していたが、私には彼が特に病気のようにも見受けられなかった。私の熱はその後平熱に近いところまで下った。私は四十度近い熱のころ、熱の為たしか一度だけ白いパンをもらったが、その後、熱が下ってからは、またもとの黒パンに戻った。ところがかの松岡君は私の在院中みた限りでは、終始白いパンを提供されていた。どうやらそれは、松岡外相の対米主戦論が時の内閣をリードし、関東軍を南下させたその結果、ソ連軍の東西両面作戦を回避させる事になったことえのソ連当局の感謝のしるしだったらしい。ソ連当局は、尾崎秀実の満洲からの関東軍南下に関する電報にもまして、関東軍と実際に南下させた松岡洋右の対米主戦論と日ソ不可侵条約締結を評価したのかも知れない。その事をあのようにして演出するという事になにがしかの意味があったのであろうか。

 (8−2) これより先、
 私の在満中の隣接部隊の将校某氏が、俘虜生活の中で結核で倒れた。入院中次第に病状が悪化して遂に亡くなったが、彼は厳冬の入院生活のある日、付添の着護婦にトマトが食べたいといったという。しかし真冬の事であり、対独戦で疲弊した当時のソ連の病院では、とても捕虜の為にトマトをすぐに準備できる筈がなかった。この看護婦は、患者のこのもとめに非常に困ったらしい。ところが、ある日彼女は突然病院から姿を消した。そして十数日もしてこの病院へ戻って来た。そのとき彼女の手には、どこか遠く離れたコルホーズに出かけて手に入れたのであろうか、一箇のトマトがあったという。私の知人のその将校は、着護婦の手でそのトマトを食べ、彼女に感謝しながら異国の地に果てたことをあとで耳にした。

 殆んどのロシア人は、ヨーロッパ人とくにドイツ人とは性格がちがうように思う。ドイツ人のようにロジカルにものごとを考え、ものごとを理詰めで処理しようとするようには見受けられない。また、自分が白ロシア人であっても、白人優位を意識しているとは感じられない。ただ少数の指導者で、いわばローソクのように白く、透き通った、感情の動かない少数の指導者さえいれば、ロシア人大衆は、それに反対することなく柔順について行く人間のように私には見えて来る。彼等はもちろん新聞を買う。鉄道の駅で一人の中年の男が列車の窓からイズベスチャ紙を買うのをみたことがある。彼は先ず、新聞の端のところを十糎程手で上手に切りとり、その紙切れで誠に手早く上手に、手まきのマホルカたばこをつくりそれをさもうまそうに吸った。イズベスチヤ紙はたばこの巻紙をつくった時に列車の荷台の上にポンとほうり上げられていた。むろんクレムリンにはこの種の人間はいないだろう。ソ連共産主義が中国やその他の国のそれよりも、よりよくその神通力を発揮できるとすれば、この辺のところにも何かがあるのではないか。零下数十度の真冬のトラックの上で、自動小銃をかかえた、軍服の下はうすい木綿の肌着一枚の若い子供のような兵隊が、何かのはずみで一団となって、われわれにはとても素人とは思えないような張りのある立派な声で、カチューシャやトロイカなどの堂々たる大合唱を始める。夏の日の白夜の季節が訪れると、見はるかす大コルホーズの地平の彼方から、コルホーズで働く若い女達が裳裾をひるがえして、夜っぴて踊りながら、底抜けに明るく歌い続ける歌声が、一面のじゃが薯畑や海のように広いひまわり畑や麦の穂を渡って途切れ途切れに聞えて来る。また、まだ完全に明けやらぬある初秋の朝早く、ネッカチーフを頭に巻いた女達が、乳牛の乳を絞るため、手に手にバケツをぶらさげて、遠くまで聞えるロシア女特有の、いかにも甲高い声でいつまでもペチャ・クチャペチャ・クチャと喋り続け乍ら広く大きな緑の丘の谷合いの中へ消えて行く。

 こういった風景は、中国やわれわれ日本人の祭とも違うように見えるし、日常生活にも見られないように思う。そこにイデオロギーとは別のもの”風土”というものを思わないわけにはいかない。といえば、ヨーロッパロシアの春、例えば、朝早く、密蜂がぶんぶんとびかい、山ぶどうの花が咲く池のほとりに立つと、そこに、ヨーロッパの音楽があって、水面に立ちこめる水蒸気の中からは、何か妖精のようなものが生れてくるようにさえ思われてくる。

 私は、今三十数年前の私の体験のメモ書を手にして、日本社会と私自身を含めたわれわれ日本人の心の変貌にただただ驚く。必死になって可能性を追求した時代は、私達が、もうずっと永い間、必然的な流れの中に埋没していて、遠く彼方へ行って仕舞ったように思う。しかし、私がいま、道草は少しも喰わないけれども、満服してデッカイ忘れ物を平気でやってのける今日この時代の頼りなさを思うのは、一人の私のただ気持の上だけのことであろうか。

 アブセンティズムやリバタリアニズムが、経済成長にとって癌だというならば、それはむしろその結果であって原因ではないように私には思われるのだがどんなものだろうか。私は今、正直なところこの時の流れにただ身を委ねるというのではなく、渾身の力を振りしぼって、この流れの中から抜け出して、可能性というものを追求したいという思いに駆られる。しかし、一代目から、貸家と唐様で書く三代目までの六十年ばかりの時の流れの中には、なにがしかの変動があることも確かなことで、しかも私達は、人生の必然的な過程としてこの過程を終えたわけだから、今この節の上に立って、時代の流れというものを、いってみれば、斜めに見るといった姿勢で、今迄とはちがった新しい道へと、吾が往く道の軌道を何程かでも修正すべく、舵取りの積極的な工夫がなくてはならないと思う。