3組 一瀬 弥助 |
夕方オフィスを出て帰途につく。信号を待つ。赤緑紫のネオンが美しい。人工美とは言え美しいと思う。ふと俺はあと何年この世に在るか。かりに八十才まで生きたとしても残りは約十五年。逆算してみると昭和四十年頃となる。三重工合併、東京オリンピックの頃である。あれから今日迄の時間しか残っていないのかと思うと一瞬愕然。年をとるにつれ死ぬ時のことがよけいに浮んで来て気が滅入る。人一倍臆病なのか。信号が変る。夥しい人の群、車の群、前を若いOL二人がさざめきつつ歩く。何と若々しく生命にあふれていることか。しかしあと五十年も経てばここにいる大半の人はこの世に存在しない筈だ。七十年したら皆無に近い。所詮は少しばかりの時間の差でしかない。何れ早かれ遅かれあちらへ行かねばならない。こう思いかえて少し落着く。一体死という問題は若い頃、もう四十年近く前にかなり深刻に考えたことがあった筈なのに。然しあの時も結局解決したわけではなかった。 昭和十九年八月初め中国湖南省衡陽攻撃の夜、突撃の指令を待つ。突如ドドドーツと腹の底にひびくようた手榴弾の炸裂音、左手の空が夕陽の如く朱に染まる。ワーツと吶喊の声。隣接大隊の突撃だ。その時ふと今ならわりに平静に死ぬことが出来そうだとの思いがかすめた。然しこの事さえもこの時一瞬の間のことで翌日炎天下の田圃の中を周辺の高台から狙い撃ちにされながら終日のたうちまわって逃げかくれした事を想うと、結局死は怖くて仕方がないという事になる。 歴戦の士と言われても矢張り弾は怖かった。少し逃げ方の要領がうまくなっただけ。かくして結局何の解決も無かった。あれから数十年、目の前の死の影はなくなった。健康上のことで脅かされることも無かった。しかし何時も暗い影は濃淡の差はあれ見えかくれして今日に到っている。 色々の本を読んでみた。脈絡もなく系統もなく。これも結局死という問題の解決(いかに平静に死ねるか)に帰結してゆく。これからも希みなき旅をつづけることになるのであろうが。 昨年十二月中頃のある朝右足の親指のつけ根に強くはないが刺す様な痛みを感じた。痛風だ。以前医者にかねて服用している降圧剤を見せたところ、悪くはないが余り永く飲むと痛風になるかも知れたいと警告されたことがあるのでピンと来た。それでもその発作は左程のことはなかった。これ位いならと思っていた処、今年三月二回目の発作が来た。今度はかなりの激震で放置するわけにはゆかず専門医を探して診察を乞うた。痛風という病気は戦前の日本には殆んど、無かった病気で最近はかなり出て来たものの未だそれ程一般的ではないようだ。 痛風の本体は血液中に尿酸(人体の代謝過程で出る核酸の燃えかすと言われている)が増加することで起るもので医学的には『高尿酸血症』と言われている。血液中の尿酸値(一○○ミリリットルの血液中の中の尿酸量、単位ミリグラム)が高くなると心臓腎臓が徐々に冒されてゆく。一般に正常値は五、七ミリグラムとされ、八ミリグラム以上が高尿酸に入るとされている。ところが痛みの発作が起るのは十人に一人の割合いと言われている。何故痛みが起る人と起らない人がいるか。その原因は未だよくわかっていないらしい。 さてこれからの余命を如何に過すかについて少しふれてみたい。目標は二つある。一つは出来る限り本を読んでみたい。買ったままで読んでいない本もあり今からも集めたい。 私の本は決して高価本ではない。(平均すれば一冊一、○○○円に満たたい) 上記小文を書くに間接的に参考になった本として次の二冊をあげる。短い本ですからお暇の折に一読をお勧めします。 |
卒業25周年記念アルバムより |