3組 今村 精嘉 |
小学五年生の秋だったと思う。わが家の枳殻(カラタチ)の垣根の前に祖母とふたりで立っていると、通りあわせてきた見知らぬ老婦人が祖母にあいさつをして、しばらく話し込んだあと私のほうを向いて「ぼうさま、早う大きうなって、お医者さんになって、またわたしらを診てやんなさいナ」といとおしむようなことばをかけて立去ったことがある。なんでもない少年の日のこの一コマの記憶が、いまだに妙に忘れられないのである。 この山国の村は、八年前に祖父が亡くなって以来、無医村であった。父も医者だが、ここから遠く離れた古い港町で開業していて、祖父の歿後も町を離れなかった。私が生れたのも、小学校へ入ったのもその港町である。しかし、その父もこの年の春、四十六才で結核のために亡くなってしまった。母はこれより四年前におなじ結核で亡くなっている。こうして小学五年生になったばかりの春、私は父の遺骨と共に中国山地の山村の祖母のもとに引揚げてきて、広くてガランとした家の中で祖母とひっそりと暮らす境涯に入ったところだった。兄と姉は、その頃すでに中学校、女学校と進んでいたので、学校に近い町の母方の親戚に身を寄せていた。 いま考えると、それから中学入学で村を離れるまでの二年間の生活は、わたしの生涯の中でも貴重な経験であった。それは娯楽や文化的な雰囲気から隔絶され、いやでも鳥、虫、草木だけを相手にするしかない世界であった。「はようお医者さんになってくださいナ」という声は、まわりの村人からなんど聴かされたことだろう。わが家は、代々が医を業としてきており親戚のほとんども医者ばかりであったから、医師は私にとって定められた進路であり、至上命令であった。 そういう私が、あっさりと商大予科などに転進したのである。中学時代に寄宿舎で同室だった友人の0君の薦めに乗ったのがきっかけであるから、若気のあやまちとしかいいようがない。もっとも、進路変更を決めたのは高等学校理乙の入試に失敗して浪人し、田舎でひとり欧文杜の通信添削をたよりに勉強している頃のことで、東京商大専門部に入学していた0君が夏休みになって私のところへ遊びにきて、十日間ばかり滞在していた間のことである。0君はさかんに東京の学生生活の愉しさを吹聴し、私に東京遊学をすすめた。高校理乙を一途に目指している私の気持は大きく動揺し、それまでは頭の隅にもなかった東京商大予科が突然目のまえに目標として現われてきたのだった。 しかし、小さい時から医者だけを考えてきた自分の志望が、こうもたわいなく変心するに至ったのには、やはりそれなりの背景がなかったわけではない。 爾来星霜四十五年。 墓所で僧侶の読経を聴いている間にも昔の思い出がつぎつぎと頭に浮んでくる。「ぼうさま、早う大きうなって、お医者さまになってわしらを診てやんなさいナ」という声が耳の底のほうから聴こえてくる。そういってくれた村の人たちへの心の痛みが甦ってくるのであった。 |