3組  浮洲静太郎

 

 オイルショック以来、アラブ諸国が急にクローズアップされてきました。私はエジプトのアレクサンドリアとカイロに昭和三十五年から約三年間滞在し、折あるごとにアラブの国々を訪れて様々の人物に会い又風物に接しました。「所変れば品変る」「百聞は一見にしかず」などといいますが、日本では想像もつかないような珍しいこと、こわいこと、面白いことが山程ありました。これから一つづつ皆さんにそのうちのいくつかの体験談や感想をご紹介したいと思います。

 (1) イスラーム

 アラブを知るためにはどうしても「イスラーム」をよけて通ることはできません。イスラームとはアラビア語で「平和であること」とか「神への帰依」という意味の言葉ですが、一般にはマホメットによって始められた宗教すなわちイスラーム教(回教)を意味する言葉です。イスラーム教は世界三大宗教の一つで、信者(これをムスリムといいます)の数は約六億人と推定されています。

 現在の中東地域の住民、すなわちセム系民族の間には古くから一神教の宗教があって、これがモーゼによってユダヤ教となり、イスラエルの民族宗教になっています。さらにイエス・キリストによってキリスト教が生まれました。イエスの後約六〇〇年を経てできたのがイスラームです。ユダヤ教で「ヤーベ」、キリスト教で「エホーバ」と称える神を、イスラームでは「アラー」と呼んでいます。

 マホメットはサウジアラビアのメッカに生れ、四十才の頃から人生の懐疑、矛盾に目を向け始め、ある日突如神の啓示を受けて以来予言者になりました。十二年間の伝道の後迫害を受けてメディナの町へ逃げましたが、その後はメディナの指導者、政治家として才能を発揮し、幾度かの教敵との戦斗を経て次第に周辺の部族を征服改宗させ、十年後にはアラビア半島全域の国家的統一を達成しましたが、紀元六三二年に世を去りました。

 マホメットがメッカで最初に神の啓示を受けて予言者としての自覚を得てから死にいたるまで、毎日の礼拝の間にアラーから啓示された言葉を信徒に口伝したものを、彼の死後一冊の聖典として編さんした書物が「コーラン」です。

 コーランにはムスリムに課せられた信仰の基本と、信者の行動に関する条項があり、これを六信五行と称し、今日なお敬慶な信者によって実行されています。そのうちの五行はイスラームの五本の柱ともいわれ、信者としての資格を決める大切なもので次の五っです。

一、信仰の告白
二、礼拝
三、断食
四、喜捨
五、巡礼

 コーランのなかには、このほかにも信徒の履行すべき数々の規定があります。飲食に関しても、豚肉を食べてはならないこと、酒を飲んではならないことなどがあります。このコーランを心のよりどころとし、日日の生活の中に生かしているのがアラブです。

 (2) インシヤアッラー

 「インシヤアッラー」というのは「アッラーのおぼしめしなら」という意味のアラビック(アラビア語)で、コーランの教えの中でもアラブ(アラビア人)に最も密着しているものの一つです。彼等が未来のことを約束するときには、必らずこの言葉をつけ加えることを忘れません。

 カイロに急ぎの用事ができました。そこで運転手に
「アリーよ、×時までに必らずカイロに着け!」
「インシヤアツラー」
 エジプト人の代理店員に
「この仕事を大至急やってくれ」
「ボクラ、インシヤツラー」
 てな具合です。

 「ボクラ」というのは明日という意味ですが、今すぐ実行できない約束をする場合「インシヤツラー」の前にこの言葉を付けて使うのが普通です。
 この場合の「ボクラ」は、その翌日を含む未来を指しているのです。

 私はあるときアレクサンドリアで背広を作りました。約束の日がきたので取りに行くと未だできておらず、「ボクラ、インシヤツラー」といわれました。そこで翌日行って見ると又同じことをいいます。ここにおいてさすが温厚な私も腹を立て、「この悪徳商人め!明日、明日と何べんうそをつくのだ!」と怒鳴ったことを覚えています。
 ところがその後彼等とつき合って行くうちに、この言葉が必らずしも責任逃れの言い訳ではないことが分ってきました。つまり、彼等は期限内に約束を果たそうと努力する。しかし世の中には自分の意志とは無関係に色々のことが起ります。それを彼等は「アツラーのおぼしめしがなかった」と考えます。だから「インシヤアツラー」とは人と約束することのむずかしさを知り、今から後のことは何も分らないという人間社会の複雑さをいい現わした言葉なのです。

 しかしその半面において、この言葉が一部のふまじめなモスリムや怠惰なアラブたちに悪用されていることもたしかです。たとえばエジプトを例にとりましょう。ここは永遠の青空の国です。一年を通じて雨がほとんど降らないので、大地はカラカラに乾ききり、国土の九六%以上は砂漠です。しかし残る三%の緑地がナイル川によって充分うるおされ、毎年実りゆたかな収穫があります。気候も冬は暖かく、夏も摂氏四五度位にはなっても、日本と違って湿気がないので日蔭は涼しく、砂漠でテント生活をする旅行者もいる位です。家も農民は泥を練って自分で作ってしまいます。雨が降らないので屋根の必要はありません。土地は、それこそいやという程あります。それもその筈、日本とくらべると国土の広さは二・七倍もあるのに人口は1/3以下です。又綿の特産地ですから衣類も格安に入手できます。

 人間正直なもので、このように一年中衣食住の心配のいらないところに住んでいますと、どうしても怠け者になってしまいます。気候や国民性の違いもあるでしょうがこの国では寸暇を惜しんで仕事にいそしむなどという人はまず見当りません。午後一時から五時まではひるねの時間。金曜日はモスリムの休日、日曜日がクリスチャンの休日ですから結局毎週二日休みがあるようなもの。その上真夏になると皆休暇をとってしまうので、能率は一層低下します。

 こんな具合ですから、何か仕事をいいつけても「ボクラ、インシヤアツラー」で逃げられてしまいます。そこで、いつだれにどのような仕事を命じたかを、その都度メモしておくことが絶対必要になってきます。そしてときどきこのメモを見ながら催促するわけです。すると彼等はいかに一生けん命その仕事をやろうとした、あるいはしているかということを、きわめて雄弁に述べたてます(実際はほとんど何もしていないのですが)。だが翌日にはもう忘れてしまう、又催促する、というような次第で、折角のマホメットの教えも、かれらに都合のいいように利用されています。

 このことに限らず一般にサウジアラビア、クウエートなどの国ぐにでは、イスラームの戒律が厳しく守られていますが、エジプトあたりでは大分乱れているというのが実情です。もっとも最近はサウジアラビアなども急テソポで近代化しつつあるようですが。

 (3) バクシーシ

 「バクシーシ」というのはアラビックでチップのことです。日本は大変しあわせな国で、日常生活の中でチップの習慣はありませんが、世界中どこへ行ってもチップの要らない国はないと言ってもよい位でしょう。したがって外国へ行く日本人の最大のなやみの一つがこのチップです。

 チップというのは心付のことですから、決して強要するべき性質のものではありません。ですからチップを出すか出さないか、またいくら出すかというのはそれぞれの人の自由です。しかしこれを出すことが普通になっており、またその土地土地の相場というものがあります。チップを全然やらなかったり、またその額が余り少なかったりすると、相手はあからさまに不満、またはさげすみの表情を見せます。しかし多すぎるといって返してくれることは勿論ありません。チップをやって「サンキュー」と言われたらまあまあで、それに「ベリーマッチ」がついてくると余計にやりすぎたのだそうです。外国へ行く時は、このチップというものがあることを頭の中に入れ小銭を沢山持って行かないと、苦しまぎれに空港のポーターに十弗も支払うはめになり、後でホゾを噛むことになります。

 一般に日本人は余りお金持でもないのに変に気前の良いところがあり、必要以上にチップをはずんだり、またホテルのエレベーターガールに扇子やスカーフをやるなどという悪い癖があります。このためその後から行った日本人は、つい沢山のチップを支払わされ、また物をねだられたりします。自分だけが良い子になろうとしてやっていることが、他の人達に迷惑をかけているわけです。

 話は少し脱線しましたが、バクシーシはイスラームの五行の一つである「喜捨」(施こし)の精神から出ています。コーランは、「あらゆる物はアッラーのたまものであり、それゆえに他の人びとの福祉のために使用すべきで、これによって己れの罪業が消滅する。また貧乏な人、困っている人やたび人たちのために施こしをすべきである」と説いています。

 貧しい人達の多いエジプトでは、バクシーシは到るところで必要です。道ばたに自動車を停めようとすると必らず男がでてきてもつともらしい駐車の指示をし、発車直前にさっとやってきてフロントグラスをひとなぜします。そこで車の大きさにしたがって一〜ニピアスター(一ピアスターは約一〇円)やります。ホテルに着きました。ドアボーイにニピアスター、部屋を案内してくれるボーイに五ピアスター、夕食はピュッフェ(立食)ですが、皿に料理を盛ってくれるコックにまた一〜ニピアスター、勘定はサインですが一割位のチップをおきます。翌朝部屋を出る前に枕の下に五ピアスター入れてやります。これはベッドマン(敷布や枕カバーを取りかえる係り)用です。

 床屋のチップは五ピアスターで散髪代(七ピアスター)とほとんど同額です。肉屋に行くと肉を切ってくれる男に、菓子屋に行くと菓子を包んでくれる女に、それぞれチップをやります。よく見ていますと、彼らはこのチップを全部一ヶ所にまとめています。おそらく店でも閉ってから従業員の間で分けるのでしょう。巡査も堂々とチップをとります。アレキサンドリアの町の真中にスポーツクラブがあり、表門にヘルメットをかぶり立派なヒゲを生やした巡査がいましたが、前任者からの申し送りで月に二十ピアスターぐらいやっていました。彼は私の車の通るたびに(私が乗っていようといまいと)必ず立派な敬礼をし、門を出入りする時は他の車を全部とめてしまうので、私の方が恐縮する位でした。之もアッラーのご利益でしょうか。

 以上の例でも分る通り、マホメットの説いた喜捨の教えは、現在では通常貧者に対する施こしの形で表わされ、また彼等もそれが金持の義務であり、彼等にとって当然の権利であると考えているようです。しかしこれは勿論コーランの精神の一部にすぎません。すなわち無差別の喜捨は有害無益であり、科学の発達、知識の習得、新しい技術の獲得、雇傭促進や能率の向上、和平の招来など人類の幸福と社会の進歩のために努力している立派な者を見出し、暮らし向きのよい者がこれを助けるというのが、イスラームの真の精神であるといわれています。

 (4) 二つの大罪

 1. 盗 み
 「ものを盗んだやつは、男女ともその手を切断せよ。」 (コーラン第五章-三八部分)

 盗みを働いた者がその手を切断されるという刑罰は、現在でもサウジアラビアで行なわれています。それは犯罪防止の効果をねらい、人々へのみせしめの意味を含んでいるので、毎週ムスリムの安息日の金曜日に、ジェッダやリヤード(首都)の広場で公衆の面前において行なわれます。処刑の方法を現地人にきくと次の通りです。

 「初犯は右手首、再犯は左手首、三犯は右膝、四犯は左膝を切断される。手首を切断するときは、まず受刑者の右手の甲の皮を中頃で切り、反対側から手首を切り落とす。手の甲の皮を腕に縫い付け、待機している救急車で病院に送り込む、この間約三十秒、麻酔はせず入院一週間でレッコーする」。

 但し実際問題として両手を切断された者が盗みを働ける筈がないので、三犯以上に及ぶ者はないようです。

 この様な極刑に処せられるため、同国では盗みを働くものは皆無です。ホテルの売店に煙草はおいてありますが人影は見えず、代金を入れるための箱だけがおいてあります。部屋の鍵も必要ありません。同国に出張する時「道路に物が落ちていても拾わない方がよい、盗んだと思われると大変だから」と忠告してくれた人もいました。こんな話を聞いているものですから、自分では何も悪いことをしていないのにどうもこの国にくると尻が落着きません。早く用件を切り上げて帰る日を待つばかりでした。

 これにくらべると最近のアメリカでは大変治安状態が悪くなり、鍵のかかったホテルの部屋の中にある、鍵のかかったトランクの中味がなくなることもまれでないそうですが、全くえらい違いですね。どこかの国でも最近はやたらに犯罪が増えていますが、回教国にあやかってもう少し刑罰を重くしたら少しは減るのではないかと思ったりします。

 2. 密 通

 「密通した男と女はそれぞれ一〇〇回むち打て。そして一団の信者にその処刑を立証させよ。」(二四-二部分)
 「なんじらの女たちのうち、みだらな行いをした者には、なんじらの中から四名の証人を呼べ。かれらがもしこれを証言したなら、かの女らを家の中に引きこもらせよ。死が生命の転化を全うするか、アッラーか、かの女らのため別の道を決めたもうまで。」(四-一五)

 密通の罪を犯した場合、男は打ち首、女は石で打ち殺されるのがアラピアにおける昔からの習慣で、原則的にはその後も守られ続けています。何しろことがことだけに、証人の数も普通の場合は二名でよいことになっていますが、その倍の数を要求されます。ことがらの性質上、証人になることは大変むづかしいと思われ、一体どのように事実を立証するのか見当がつきません。、そこで訊.いて見ると、本人達(特に女性)が良心の呵責に堪えかねて、自首する場合が多いそうで、との場合証人は不要とのことでした。

 処刑の方法はまず男の首を切り、その血の中に女をすわらせて、見物人が石を投げつける。ときどき役人が行って脈を調べ、死ぬまで刑を行なうというまことにおそろしいものです。但し妻が密通している現場をその夫が見つけた場合は、妻と情夫の両方をその場で殺してもよいことになっています。

 一〇〇回のむち打ちの刑というのは、マホメットがある時遠征した帰りにその妻が隊列から離れ、翌朝若い遊牧民の男とともに帰ってきました。男女が二人きりで一夜を明かせば貞操を疑われても仕方がありません。ですからこの項はマホメットの妻への愛情の表われであり、妻を石責めの刑から救うために、このような教えを垂れたものと推測されています。

 (5) 酒、とばく、食物

 1. 酒ととばく

 「酒ととばくは大罪であるが、人間のために多少の益もある。だがその罪は益よりも大である。」(コーラン第二章二一九部分)
 「まことに酒とかけ事、偶像とくじ矢は忌う嫌うべき悪魔の業である。これを避けよ、おそらくなんじらは成功するであろう。」(五-九〇)

 「悪魔の望むところは、酒とかけごとによってなんじらの間に敵意と憎悪を起こさせ、たんじらがアッラーを念じ、礼拝することを妨げようとする。」(五-九一)

 酒ととばく特に酒は固く禁じられています。サウジアラビアを例にとると、まず入国の際には、酒類を持ち込んでいないかどうか厳重な検査があり、見付かった人は即座にびんを叩き割られてしまいます。そういう酒が毎年何万本もあるということですが、左党にはもったいたいような話ですね。

 外国では外交官は特権があり、税関はフリーパスですが、この国だけはそれが利きません。ですからかれらといえどもこの国にウイスキーを持ち込むときは、一見普通の荷物と同じ様に荷造りし、税関吏の顔色を気にしながらやっています。ましてわれわれ平民には、とてもこわくてそんな物を持ち込む勇気はありません。

 ホテルの食堂に入ると、入口に十数種類の飲物が並べてありますが、アルコールは一切入っていません。英国人にすすめられて通称「ニア・ビール」(ビールに近い味の飲物というような意味でしょう)というものを飲んで見ました。なるほど色といい泡立ちといい、外見はビールにそっくりですが、アルコールが入っていないので変な味でした。かれらはせめてこれを飲むことによって酒に対する郷愁をいやしているのです。

 何事にも裏道というものはあるもので、この厳しい禁酒国でも酒にありつくことはできます。つまり密輸のウイスキーを買うわけですが、これは値段も高い上に大変危険です。というのはもし戸外で酔っているのを見つかると、牢に入れられた上金曜日に例の広場で公衆の面前でお尻をむちで打たれるからです。皮肉なもので、このような禁酒国の駐在員程酒好きな人が多く、ときどきベイルートあたりに息抜きに行くのを何よりの楽しみにしていました。

 2. 食 物
 コーランで禁じている食物は、死肉、血、豚肉などです。死肉とは自然死した動物の肉をいい、イスラームの方式によらず屠殺されたものを含みます。豚肉が禁止されているのは、豚が不潔な動物で他の動物よりも病疫を伝染する危険が大であり、またその肉は労役獣よりも脂こく、人間の心身に悪影響を与えるからだといわれています。

 ですから敬慶なモスリムは、肉類をすすめられると必ず豚肉ではないかを確かめ、少しでも豚肉の入っている料理には絶対手を付けません。かれらが主に食べるのは羊の肉です。日本ではバーベキューなどに一部使う位ですが、かれらはこれを頭から爪先まで食べます。

 一番うまいのは眼玉だそうですが、これは食べそこないました。シシカバブというのがよくでますが、これは羊の肉を串に刺して焼いたものです。又タルタルといって羊の生の肉をすりつぶして香辛料で味をつけたものがあります。羊の刺身というわけですが、これが滅法うまいので夢中になってパクついていました。ひょっと気が付いて「肝臓ジストマは大丈夫か?」と訊きますと「大丈夫、心配するな。ここ(ベイルートでしたが)にはそのために特別の薬がある」とのこと。びっくりして止めてしまいました。

 一般に外国人はよく食べます。かれらにとって三度の食事は毎日の大切な行事であり、たっぷりと時間をかけ色々の話をしながらご馳走を食べます。酒も食欲増進剤として少量飲むのが普通です。ですから酔っばらって大声を出したり乱暴したりして他人に迷惑をかけ、また街頭で小問物屋をひろげるなどという場面にはお目にかかれません。

 アラブは特別大食です。かれらが正式に魚を食べるのは年に一回春のお祭りの日だけで、肉が常食です。成牛は固くてまずいので、羊の他は小牛や鶏ということになります。この他エジプト名物の鳩料理がありますが、相当脂こいものです。どの料理にも油が沢山使ってあり、眼玉焼などは、油の中に玉子が泳いでいるという感じです。従って新しく赴任してきた日本人は、必ず一度はひどい下痢にかかることになっています。

 脂肪をとりすぎるせいでしょうか、三十才代位になると肝臓を悪くするものが多く、又例外なく下腹が出てきます。特に女性は糖分のとりすぎもあって猛烈に太りだしますが、驚いたことに太ることは決して恥ではなくむしろ誇りなのです。それは、太っているということが、忙しい家事に追われることがなく毎日夫から美食を与えられている。つまり富の証明だからです。おかげで日本では小さくなっている肥満型の奥さん連中も、この国では皆いきいきとして大道をかっ歩していました。

 (6) 女について

 1. 四人の妻

 「なんじらが、もしみなし児たちを公正にとりあつかえない恐れがあるなら、気に入った女を二人でも三人でも四人でもめとるがよい。しかしそれらの妻たちも公平にあつかえない恐れがあるなら、一人の妻か、あるいはなんじの右手の所有する者(捕虜の女)だけにしておけ」 (コーラン第四章一三)

 「アラブの男は四人の妻を持っている」とか、「ムスリムになれば四人の妻が持てるらしい」などという。いささか伝説めいた、また男性を多分に羨望的な気持にさせる話はこの啓示から生れたようですが、イスラームの精神は、この文面からも明らかな通り一夫一婦制で、またムスリム社会の現実も大体そうなっています。

 ある時の戦いで、七〇〇人のムスリム軍の内七四人の戦死者が出て、多くのみなし児と未亡人ができてしまいました。そこでマホメットはこれらの犠牲者を救済し、苦心の末に妻の数を四人とする一夫多妻制を考えついたというのが通説になっています。

 私のつき合っていた範囲内のアラブ達も、事実皆一夫一婦制でした。一九七〇年に死んだエジプトの故ナセル大統領は、「アラブの巨星」と呼ばれた立派な政治家で、また清潔な軍人でした。彼は何とかしてコーランのこの章を改めて一夫一婦制にしたいと努力しましたが、コーランを至上の聖典とあがめるイスラーム教の長老達の反対にあい、ついに目的を果たすことができなかったといわれています。

 一九五二年にエジプトから追放された元国王のファルークは、女好きの極道者で悪名が高く、次から次へと女に手を出したそうです。コーランの教えを悪用すれば四人まで妻を持てるわけですが、四人目を次から次えと取りかえていけば無限大に(金さえあれば)奥さんが持てることになります。ナセルを含む青年将校団が打倒ファルーク王権のクーデターを起こしたのも、このように堕落したファルーク政権に代わって、大部分が貧しい農民である民衆のための正しい政治の実現を図ったからにほかなりません。

 2. べール

 「女の信者たちに言え、その目を伏せ、貞節を守り、外に出ている部分のほかはその美しいところを人目にさらさぬようにせよ。またべールをその胸の上に垂れよ。そして自分の夫または父以外の者には、その美しいところを見せないようにせよ」 (二四-三一部分)
 「なんじの妻、娘たちまた信者の女たちに、すその長い服でその身体を包むように言え」 (三二-五九部分)

 「女性は家の中にとどまっているがよい。派手な身づくろいはするな」 (二三-三三部分)

 サウジアラビアのジエッダに行ったときのことですが、奇妙なことには街の中を歩いているのは男ばかりで、女の姿が全然見当りません。一度だけスーク(市場)に買物に行ったとき、数名の女性の姿を遠くから垣間見ました。彼女らは一様に顔だけを出して他の部分は黒いべールでおおいかくしていましたが、私の姿を見るや否や全部かくしてしまいました。このべールはチャドルと呼ばれ、庶民は木綿、上流階級は絹製です。よくよく見るとチャドルの下に華やいだ色の衣服が透けて見え、いっそケバケバしい服装よりも却って神秘的でなまめかしい感じでした。

 ある時現地人の代理店の社長の家に夕食によばれて行きました。社長の他に大小取りまぜて一ダース位の男の子が出てきて、ピンポンなどに興じています。給仕をする召使達も全部男で、酒は勿論なし。その上料理も今迄食べたことのない変なもの許りで、何とも味気のない食事でした。これらのことからもお分りの通り、アラブの女性は従来社会的地位が低く、男性の保護の下にひたすら家に閉じこもり、家事にいそしんで来ました。厳しいコーランの掟を守る彼女達の操は固く、未婚の女子が夜間外出する時には必ず親戚の者と行動を共にし、身の証しを立てなければなりません。異教徒の男性とのつき合いなどもっての外と言うところです。

 エジプトでは大分様子が違っています。即ちこの国では故ナセル大統領の大改革により、カイロやアレクサソドリアなどの大都会ではべールはもう過去のものとなっています。豊かな胸の隆起、端正な横顔に古代エジプト人さながら濃いアイラインを入れたつぶらな瞳は、我我異国人にとって堪らない魅力でした。

 戒律の厳しいサウジアラビアでも、最近はべールのすそがどんどん短くなり、ケープのようなスタイルになっているそうです。同時にべール自体が薄くなり、女性の顔も透き通って見えるとか。又ベールさえかぶらぬ女性も出現した由ですが、この服装革命の原因は最近放映され始めた米国のテレビにあると言われています。こうして今迄長い間「鎖国状態」にあったこれらの国ぐににも、近代化の波は激しく打ち寄せているのです。

 (7) 貧しい人びと

 アラブ諸国には貧しい人が多いことは前にも書きました。たとえばカイロの街を歩いている現地人の半分以上は男も女もはだしです。バスの後ろのバンパーの上に乗っている者、電車のステップに足をかけてぶらさがっている者をよく見受けますが、これは料金をとられません。つまり貧乏人の特権です。

 彼等の金持に対する反感にはすさまじいものがあります。エジプトでは、田舎で自動車事故を起こしたら、そこで停らずまっすぐに最寄の警察に届けろという言い伝えがあります。ある時カイロからアレクサンドリアに向う途中、突然車の前に男の子が飛び出して来ました。運転手のアリーはあわてて急停車し、思わず車から下りて子供を抱き上げました。その子は驚きのあまり気絶していましたが、どこにも怪我はありません。やれやれと車に戻ろうとするとさあ大変。アッという間に手に手に鍬や鎌を持った農夫達が四、五十人車を取り巻き、母親は子供を抱いて泣きわめきながら皆に「こいつらが私の子どもをひどい目にあわせた」とか何とか言っています。

 アリーは群衆に小突き回されてオロオロするばかり。私は急いで中からノブを押しましたが、彼等は何とかして私を外に出そうとして、ドアを引張ったり叩いたりします。何とも弱りました。私の生命もこれまでかと観念しかかった頃、通行人の急報で、村の駐在さんが姿を現わしてくれました。彼が鞭で群衆を追い払ってくれやっと危機を脱しましたが、聞くところによるとつい数日前もエジプト人の医者が村人を自動車でひき殺してしまい、群衆になぐられて死んだが犯人は不明とのこと。あの場合もし子供の指一本でも折れておれば我々も助からなかっただろうと、後から考えてゾッとしました。

 彼等には貧しさから来る暗さはありません。陽気で議論好きな憎めない人達です。誰も明日の生活のことなど気にはしません。今日一日はアッラーの恵みで無事過ぎた。明日もまた金色の太陽が紺碧の空に姿を現わし、そしてナイルは豊かな稔りを約束してくれるのです。この恵まれた大自然の中に住む彼等にとって、現在の生活以上に何を求める必要があるでしょうか。

 彼等は皆好人物で、人を疑うということを知りません。ですからいつ誰とでも友達になります。また人情に厚く優しい心を持っています。自己の利益のために他人を裏切ったり、悪口を言ったりすることはありません。主人や上司の言うことには絶対服従です。ゴルフ場のキャディ(中年の男が多い)などとても人なつっこくて、時時自分の女房と錯覚を起こす位可愛いい連中でした。

 私には、NYKに働くことを何よりの誇りに生きていた信心深いトルコ帽のワッチマンアリーや、子供達の面倒を良く見てくれ、カイロの空港で泣きながら我我を見送ってくれた女中のムニーラ、自分の仕事を誠心誠意果していた忠実な黒ん坊のコックアブドゲーなどの身分の低い貧しい人達の方が、表面は美しく着飾っていてもなかなか心の底を見せようとしない上流階級の人びとより、人間的にははるかに立派だったと思えるのです。そして今でも時々あの連中はどうしているかなあと懐しく思い出します。

 (8) 断 食

 断食はイスラーム五行の一つとしてムスリムの厳守するところで、これにより克己心を練り、道徳を高め、罪過から遠ざかり信仰を深めようとするものです。病人、旅行者その他特殊事情の者はこれを後日に延ばしても良く、また極端に弱い者や老令者は貧しい者に金品を与え養ってやることで断食の代りとすることができます。

 実生活では太陽暦が用いられているアラブ諸国でも、宗教的行事には一年を三十日の月と二十九日の月との交互配置による三百五十四日とする太陽暦が用いられています。コーランが断食を定めているラマダーンの月はその九番目の月の名前です。

 この月の三十日の間、ムスリムは黎明(日出の一時間半前)から日没時まで水一滴口にすることも許されません。煙草も禁止されます。このため労働力は急激に低下します。アラブ諸港の荷役能率がガタ落ちになり、船会社が頭を痛めるのもこの月ですが、それもコーランの教えとあってはどうすることもできません。

 日没から黎明までの間の飲食は差し支えないわけですが、食いしん坊の多いエジプトあたりではまことに奇妙な風景が展開されます。カイロの街では夕方になると、至るところのレストランでご馳走をテーブルの上に所狭しと並べたて、生唾をのんでいる大の男たちを見受けます。彼等は日没を告げるムカタムの丘の号砲を、今や遅しとばかり待ち構えているのです。

 昼の間は全然飲み食いしないのですから、当然気が立ってきます。ラマダーンの月にリァド(サウジアラビアの首都)の街頭で煙草を吸っていた外人が、群衆になぐり殺されたことがありました。また車の中で煙草を吸っているのを現地人に見つかって騒がれ、あわてて逃げ出した日本人もいます。宗教の恐ろしさというものをあらためて感じさせられるできごとでした。

 寝る前に食べるだけではまだ足りないので、明け方に起きて腹ごしらえをし、また寝ます。これでは身体のためにも余り良くないと思います。事実一部のインテリ階級の中には敬慶なムスリムでありながら断食をしない人たちもでてきていますが、長い年月をかけて浸透したマホメットの教えを、一朝一夕に人びとの心から追い払うのはなかなか難かしいことのようです。

 


卒業25周年記念アルバムより