3組  大串 隆作

 

 学生時代には何といっても懐しい思い出が多い。その中でも恐らく私の一生を通じて学生時代でなくては経験出来なかったと思われるものに演劇があり、その思い出は今も私の心に生きている。
 私達が昭和十一年予科に入学して間もなく、記念祭がやって来た。この年、予科では新入生が始めて全寮制になった事もあり、記念祭行事の内容は、例年になく充実していると言われた。

 その一つに演劇があった。従来演劇部門は、希望者だけの参加で一般に余り関心もなかったらしいが、此の年だけは一年から三年までの十八組が全部参加する事になり、その上十八組の中から観客の投票によって最優秀のクラスを決めるという話が出て居り、各クラスとも上演する戯曲の選定に真剣に取り組んだものである。
 私のクラス一年三組には、往年の文学青年水田君が居た。その水田青年から私の処に、記念祭にはユージン・オニール原作の一幕物『鯨』を演ろうという話が持ち込まれた。
 この『鯨』という戯曲は、船内での船長夫妻の会話が主体となって展開する、素人にとっては極めて難しい劇である。それが又驚いた事に水田青年が言うには船長は野田君、その妻は何と私にやれとの事である。

 勿論当時の事だから学外から女子学生など女性を呼んで来る訳にはいかず、女役も自分達でこなさなければならない位判って居た。それだけに、脚本は女性が全く出て来ないか、出て来ても端役にすぎない程度の方が学生演劇には向いて居ると私は考えて居た。
 処がこの船長の妻は主役の一人であって、話す回数が多いばかりか一回の科白が又長い。それに動きが殆どないときている。そこで私は必死になって
『大体俺は、背が高い方だし、いかり肩(当時は)だし、物覚えも悪い。到底こんな難しい女役は勤まらない。勘弁して呉れ』
 と何回か固辞したが、他にやる奴なんか居ないよ、という一点張りで到頭演出家の水田先生に押し切られて了った。
 それからというもの記念祭まで毎日のように寮の裏の櫟林で水田先生指導の下に野田君と立ち読みの繰返しが始まるのである。

 当時新宿には、なかなか風刺の利いた脚本と森野鍛冶哉・三国周三・左卜全といった芸達者な俳優が売り物のムーラン・ルージュという小さな劇場があった。此処には亦、明日待子・小柳ナナ子といった若い可愛いい女優が居て、学生みんなのアイドルであった。私も折角記念祭の芝居で苦労するからには何んとか自分の衣裳やかつらはムーラン・ルージュに借りに行き、その際楽屋ででも明日待子達に会ってみたいと秘かに淡い期待を持って居たのに、この点は水田先生が実に手廻しよく皆の衣裳から、かつら、小道具に至るまでムーラン・ルージュからサッサと借りて来て了った。

 記念祭演劇に参加するクラスの内優勝の前評判が最も高かったのは三年山代洋さん達が演るゴーリキ原作の『どん底』であった。その他『父帰る』『同志の人』『嬰児殺し』なども話題になって居た。残念乍ら『鯨』に至っては、出演する本人の私からして全く自信がなくどうしてこんな難しい役を引受けたのかと後悔する事しきりであった。只頼りになるのは船長役の野田君で彼はなかなか風格があり声量も豊かで堂々として居た。

 愈々当日となってドキドキし乍ら舞台に上ってみて驚いた。まさに場外に溢れるばかりの大入満員である。処が意外な事に満員の観客の視線を身体に感じてから、私は却って気持が落ち付いて、それからはどうやら淀みなく演技が出来たように記憶して居る。

 その夜私の部屋だった北寮十六号室に自称(実際にもそうであったのかも知れない)演劇審査委員長の北村秀生さんがやって来て、一年の『鯨』が三年の『どん底』を押えて見事優勝したと伝え、おめでとうと言って呉れた。北村さんによると観客の票は圧倒的に『鯨』が多かったという。何か信じられない気持だったが一位になったとしたらそれは何といっても野田君の好演が光ったに違いない。それに水夫長をやって呉れた林君や今は亡き福間君その他の人達の助演も与って力あったものと思う。併しそれにしても私などが頭から之は学生劇としては無理だと考えていた『鯨』を選定した水田君の勘の冴えは流石というべきであろう。

 私はその後二年生になってからも皆にすすめられる儘寮に居残る事にした。そしてその年昭和十二年の予科記念祭には、石川滋さんの発案で寮生だけで劇をやる事にたった。石川さんは従来の記念祭演劇の通俗化を歎き、何か新風を吹き込もうと自らメーテルリンクの『群盲』を取り上げ演出も受持った。その時二年生では私と疋田君だけが出演し、あとは皆一年生であったように記憶して居る。戯曲そのものは高度の内容を持ったものであったが、舞台の上での動きのない劇だけに何としても私達の演技なり発声法が未熟のため、記念祭でザワついている観客を到底引きつけて置くだけの力がなく残念乍ら之は全く失敗に終って了った。

 私はその年、殆ど夏休みを返上して予科十五年史編纂を目指して一橋の先輩の方々を訪問しては籠城事件や白票事件の話などを訊いて廻った。その内、九月の新学期が始まる頃になって微熱が続くようになり、杏雲堂の近藤先生に診て貰ったら『肺門淋巴腺腫脹』という事で絶対安静を命じられた。そしてそれから遂に私は、自宅療養をし乍ら一年余り休学の止むなきに至るのである。

 一年留年して学校へ出るとクラスは変ったが、ここにも亦芝居好きの連中が多く居た。私は病気する迄、築地小劇場に通っては新協劇団や劇団新築地の舞台をよく見に行った。特に村山知義演出のものが好きで俳優では滝沢修、小沢栄(後の栄太郎)、細川ちか子、丸山定夫といった人達に熱烈な拍手を送ったものである。病気になってから一年半程は劇場通いを止めて居たが、健康が恢復すると又観劇の回数が多くなった。只以前とは違って築地小劇場だけでなく文学座の飛行館にも行くし、前進座などには舞台稽古を徹夜で観に行ったりした。その内、観るだけでは満足出来ず、自分自身でも芝居を演り度いと考えるようになり、同志を募って予科内に演劇研究会を組織し、歌舞伎が大好きと言われる神保先生に部長になって戴いた。劇研が発足すると間もなく昭和十四年の予科記念祭がやって来たが今回は劇研として演劇に参加する事にした。私はもともと芸術至上主義的なサロソ風演技の文学座よりも、社会主義的リアリズムを標榜する新協劇団や新築地の力強さ、泥くささの方に共感を覚えて居た。それでいて一方では彼等の場合、ともすればイデオロギーだけが前面に出すぎて演劇は飽く迄もプロパガンダのための方便でしかなくなるという危倶を感じない訳にはいかなかった。

 私は予てから、学生演劇は商業劇場では全く取り上げないような、それでいて観客に強くアピールするものでなくてはならないと考えて居た。そこで、今回が劇研として初の公演でもあり、戯曲の選定にはさんざん迷った挙句、結局当時『鼬(いたち)』という戯曲を書いて売り出した新進作家真船豊の『小さき町』を取り上げる事にした。

 之は確か三幕の可成り長いもので、その上小学校の女の先生が主役になって居るので、寧ろ『鯨』以上に難しい劇であるとは思ったが、私は敢て自らその女教師の役を買って出た。というのも、この戯曲のいいところは、翻訳劇と違って科白が極めて自然で情感があり、何よりも説得力があると思ったからである。

 この時かつらはどこで借りたか覚えていないが地味な着物と袴は、当時、日曜日毎に通って居た教会の、幼稚園の保母さんから貸して貰って記念祭に出演した。之が意外なくらい好評を拍した。神保先生から『久し振りに見応えのある芝居を見せて貰いました。』と言われた時は本当に嬉しかった。

 之に力を得て、学部に進んでからも昭和十五年、予科の記念祭に劇研として又、真船豊の『太陽の子』を上演した。私はこの時も、他に受手が居ないため主役の老年に近い奥さん役を演じた。母の着物と羽織を借りたまでは良かったが、矢張りどうしてもツソツルテンの感じで、たもとから腕がニョキニョキ出て来るのが気になって舞台の上で何回も着物の袖を引っ張り腕をかくそうとした事を今でも時折思い出す。

 その后劇研は、学内新体制ということで『演劇映画研究班』と改称し、大学演劇連盟が結成された時には、請われてその幹事役にもなったが、この連盟には何か政治的色彩が感じられ私はあまり好きではなかった。

 この頃になると部員も学部、予科併せると二十数名の大世帯になり、私は出演しなかったが学外から頼まれて劇研として、二、三公演までするようになった。そうこうしている中に私にとって、之だけは是非ここに書き誌して置き度い事が起きるのである。

 昭和十六年(一九四一年)七月だったと思うが、文学座が勉強会という名の下にソーントン・ワイルダー原作の『わが町』を長岡輝子演出により築地小劇場改めの国民新劇場で公演することになった。従来文学座の勉強会というのは錦橋閣でばかり行われて居り、国民新劇場で演るのは之が始めてではなかったろうか。

 私はこの芝居は是非見度いと思った。その理由は二つあった。その一つは、この『わが町』という劇は舞台装置がなく、小道具すら殆んど使用しないというこれまでの商業演劇では考えられない、画期的とも言える新しいジャンルのものであったことである。尤も原作者自身の言葉を借りれば、昔の中国演劇では棒に跨って見せる事で馬上に居ることを伝え、日本の能の殆んどで演技者が舞台を一周して長旅を示して居り、之は本来の演劇に復帰するものだということになるのだが、能の好きな私にとっては非常に興味があった。

 もう一つの理由は、この戯曲がソーントン・ワイルダー原作のものであるという事である。ワイルダーは一九二七年『サン・ルイス・レイの橋』という小説を書き、アメリカでピュリッツァ賞を受けて居り、当時日本でも『運命の橋』という題名で翻訳書が出て居た。この翻訳本では著者の名はソーントン・ウィルダーとなって居たし文学座の『わが町』のちらしにもウィルダー原作となって居たが、私が偶々英文学の西川正身先生から『サン・ルイス・レイの橋』の原書をお借りした時、先生はハッキリ著者の名はソーントン・ワイルダーと呼ぶのが正しいと思うと言われた。

 この本は私に大きな感銘を与えて呉れた。この小説の基底に流れるものはキリスト教精神であったが、特にその中で「生者の世界と死者の世界を結ぶものは愛であり、思い出こそが二つの世界のかけ橋になる」というテーマが非常に印象的であった。余談になるが、西川先生の英文学の試験には、教室でこの本の読後感を小論にまとめて提出した記憶がある。猶ワイルダーはこの『わが町』でも一九三八年二回目のピュリッツア賞を貰って居る。

 国民新劇場で見た『わが町』は私が之まで観て来た文学座のどの芝居よりも素晴らしかった。劇はアメリカのどこにでもありそうな二つの家庭に起きる子供の成長から始って、恋愛、結婚、葬式といった日常生活の流れの中で人間の愛と孤独、生と死を深く考えさせるものである。そしていうまでもなく劇を一貫して流れるものはピュリタニズムであった。

 この芝居は、前述したように舞台装置も、小道具も極端に制限して、専ら観客のイマジネィションを刺戟し、舞台上の時間的空間的制約を超えて観客の目に映るもの以上の世界に迫ろうとする手法のものであるが、原作のよさと文学座の高い演技力とが相侯って実に感動的な舞台であった。

 併し、劇場に来て居る人達の一部には欠伸をしたり、おかしくもない処で笑うものも居た。私はその時、この劇の観客は可成り高い想像力を持った人達でないと劇の良さが理解出来ないのではないかと思うと同時に、戦雲立ち籠めるこういった時代にこそ、この劇は多くの人達に観て貰い理解して貰い度いと願うことしきりであった。

 この勉強会は短時日で終ったが非常に好評だったのであろう、やがて東京と大阪で『わが町』の公演が行われた。東京公演のとき私は、劇研の仲間数人を誘ってもう一回観に行った。

 私は予て、この劇が舞台装置も小道具も要らず而も観客には豊かな想像力を要求するところから、之を国立の兼松講堂で演れたら素晴らしいと考えて居た。理解力の高い同学の学友諸君に見て貰えたら必ず満足してくれるであろうという強い確信があった。そこでこの私の考えを劇研の仲間にも相談した処、皆賛成して呉れ、是非この計画を文化祭の一環として実現しようとすぐ話が纏った。

 併しこの計画は余程うまく取り進めないと、世相が世相だけに実現は極めて難しいように思えた。そこで大学当局にお願いする前に先ず劇研の部長である神保先生と、ワイルダーの良き理解者で居られた西川先生に御相談した。両先生ともそれは良い考えだと賛成して下さったが、大学の承認をとるには仏文学の内藤濯先生に頼んで見てはどうかという御意見であった。内藤先生は文学座創立者の岸田国士、岩田豊雄両氏とも泥懇の間柄と聞いて居たし、大学の教授会に出席されている事でもあり、之は適切なアドバイスであったように思う。早速、内藤先生にお願いしたところ面白いアイディアだと非常に乗気で、学内の承認がとれるよう、自分から話してみようと言下に引受けて下さった。そして意外に早く高瀬学長を始め、教授会の承認をとられたようである。

 一方文学座との交渉は一座の龍岡音さんを通じて行った。龍岡さんは昭和十七年学卒の和泉沢君の伯父さんに当る人である。文学座では、われわれの非常に乏しい予算にも拘らず実に気持よく上演を承諾して呉れた。学内では文化祭の行事の一つとして早速行う手筈にして居たが文学座で大阪公演があるため、兼松講堂での上演は十一月十七日と決った。

 文学座出演の当日は十一月にしては生憎寒い日であった。舞台装置はなく小道具も殆んで要らないけれども、衣裳だけは出演者全員が着換えねばならない。それには楽屋とてない兼松講堂の舞台裏はひどく寒かった。慌てて劇研の仲間で手分けをして、いくつかの火鉢を舞台裏に持ち込み炭火を真赤になるまでどんどん燃やした。

 文学座からは演出の長岡輝子を始め、照明や裏方まで入れて三十名近い人達が大挙して国立にやってきた。出演者はこの劇の進行係をつとめる三津田健を筆頭に、中村伸郎・森雅之・宮口精二といった男優陣から荒木道子・田代信子・賀原夏子・新田暎子といった女優陣まで当時の文学座の殆んどといって良い位の、多彩な顔触れが勢揃いした。演出の長岡さんとはその時始めて会ったが極めて感じの良い優しい人だったように思う。最近時折テレビで見かける彼女からは、その当時のイメージがどうしても浮んで来ない。

 私は劇団の人達が商業劇場と異った大学の何の設備もない講堂で、とまどうのではないかと全く落ち付かなかったが出演者の人達は舞台裏では皆明るく談笑して居り、文句一つ言わなかった。それでも私自身は、何か手落ちがあってはいけないと舞台裏と客席との間を右往左往し、遂に舞台は殆んど見る事が出来なかった。只、劇が始まって舞台の袖から客席を見ると、二階の席の後ろまで学生が一杯つめかけ、まさに満員の盛況であった。一階の前よりの中央の席には高瀬学長も観に来て居られたが、最前列に太刀川学生課長が脚にゲートルを巻いて観劇されていたのが誠に印象的であった。あとで文学座の人達と兼松講堂前で写真を撮ったが之には内藤先生、西川先生、神保先生と並んで高橋泰蔵先生の顔も写って居る。

 

 

 公演は大成功であった。第三幕が終った時満場は何回か大きな拍手に湧いた。裏方の私までまるで舞台で主役を演じ終った時のように興奮し舞台の袖の下に立ちすくみ、ただ『良かった、良かった』と眩いて居たことを今も昨日のように憶えて居る。

 この日から丁度三週間後、日本は遂にアメリカとの戦争に突入した。そしてこの兼松講堂での上演を最後に、文学座では終戦まで再び『わが町』を公演することはなかった。

 今から二年前の昭和五十四年に出版された長岡輝子さんの戯曲『わが町-溝口』のあと書に当時のことを追想して次のように書き記されている。
 「こうしたなかに『わが町』の大阪公演が十一月の九日に済み、同じ月の十七日、晩秋の色も深い国立の商科大学でもう一度上演した時は、父が生きていてくれたら喜んでくれただろうと悲しかった。」(原文のまま)
 猶、長岡さんの父上は戦前の『クラウンリーダー』の作者であり、一橋とも関係があったのではないかと思われる。

 又この同じ本の中で、鳴海四郎君(私とは小学校、中学校同級、一橋では先輩、現在立教大学教授)が『わが町』と長岡さんについて思い出を書いて居るが、長岡さんの亡き夫金杉惇郎さんが、中学校の私達の先輩である事も判り、懐しい気がした。

 それはさて措き、当時のある大学新聞は、兼松講堂に文学座をよんで『わが町』を上演したことについて『勇気ある企画』と評し、特に大学当局の理解ある態度に敬意を表すると書いていた。
 考えてみると全くこういった企画は一橋であったからこそ実現できたのであり、当時の戦時色濃厚な情勢下では、他の国立大学ではどこもなし得たかったことだったと思う。特にこの学内公演のあと、いくばくもなくして街中に『米英鬼蓄』のビラが氾濫したことを思えば尚更である。
 その意味でも当時のわが一橋は、飽く迄も学生を信頼し、自由で進歩的な学風の「官学にして私学』であった。私は学生時代余り専門的な勉強はしなかったが、あの戦時下にあり乍ら自由な学風を最後まで貫き通したこの大学で学び得たことに、今でも高い誇りをもっている。

 こうやって今私は、学生時代に於ける自分のつたない演劇遍歴ともいうべき思い出をとりとめもなく書き綴って来た。そして最後にどうしてもここに書き残して置き度いことがある。それは私の予科、学部を通じ劇研の部長をして下さり色々相談にのって下さった今は亡き神保先生のことである。その神保先生が私達大学卒業の際寄せられた一文をここに引用させて戴き、更めて先生の生前の御指導に深く感謝申し上げると共に、心から御冥福をお祈りするものである。

 「これまでに劇研究会といふ名称を持った集りは商大の中にも幾度か存在したが、言はばそれは同好者の寄り合ひに過ぎず、そのファン達が卒業すれば自然消滅の形となった。又この他に予科記念祭行事の一つとして毎年幾つかの劇が演じられたが、勿論この方は多分に祝祭気分の強いもの丈に、演劇的感興もほんの一時的な爆発に終ってしまった。
 恁うした状況に対する不満が、数年前期せずして一つの力強い集りを予科の中に造り上げさせた。勿論そこには明確な指導原理といふようなものは未だなかったけれども、皆の胸の中に真摯目な演劇を学生達の手によって創り出そうとする熱意が同じように燃え盛ってゐた。そして此の熱意が結晶して、記念祭に始めて劇研自身の出し物が上演され今までになかった清新な芸術的気分が記念祭の中に醸成されたのであった。
 爾後此れ等創立者同人達の熱意は少しも冷却せず、後輩を指導して二回、三回と上演を重ね、又その間の勉強にも倦む所なく、今は劇研の団体的結合は予科、学部を通じて他の如何なる班にも劣らぬ程の強固なものとなった。
 今此の多難な創立の仕事を成し了へて学園を巣立たんとする人々に対しては、後進の班員達は深い感謝の念を捧げて、益々その勉強を励んで行くであらう。」
      (班長神保謙吾)  (原文のまま)

 


卒業25周年記念アルバムより