3組  片山 光夫

 

 「六星霜ボール蹴りつつ暮れにけり」

 これが卒業アルバムに書いた私の商大六年間の感想である。サッカー王国広島に育った私は小学校五年生からボールを蹴り始め、学童蹴球大会で優勝した。広島一中時代は部生活こそやらなかったが、毎日ゴム毬を蹴って五年間を過した。予科に入るや先輩の勧誘でサッカー部に入り六年間ボールを蹴り続けた。その間予科時代には高商大会で三連勝、大学リーグでは一度二部へ陥落した苦い経験があるが大半を一部で過ごした。日夜練習に練習で、合宿の時なぞ血尿が出たこともあり、よくあれだけ練習をしたものだと思う。尤もこの中にあって私が一番サボったのだが。今日の部生活はよく知らないが、あの当時程の練習は恐らくやっていないだろう。社会に出てからは復員後職場の同志を集めてサッカー部を創り、部のリーダーとして戦後の物不足と闘い乍ら四十歳近く迄蹴り続けた。その後はゴルフに転向したが社内大会等があればいい年をしてと人に笑われ乍ら率先して白球を追った次第。ボールを蹴る機会が暫く遠のいていたが、昨年私の所属している神戸キワニスクラブで神戸女学院から試合の申込みがあったのを契機に同好会をつくることとなり、既に六十を越えた身ながら好きな道は忘れられず、赤い揃いのユニホームを着て走り廻っている。夕陽を浴びてボールを蹴り汗を流した後のビールの美味さはまた格別。鳴呼!

 ○「人生運命に逆うべからず」

 既に還暦を過ぎてこれまでの人生を振り返ってみると、いろんな節目があったと思う。私にとって昭和二十年四月が最大の節目であり、人生の岐路であったと思う。大学卒業後直ちに現役で入隊。経理を落ちて歩兵として幸にも外地に行かず任官する迄ずっと島根県の浜田聯隊にいた。見習士官時代に暗号を修業していたので、昭和二十年一月電報班長として広島師団司令部へ転属となった。中学校卒業以来九年振りに郷里に帰ったこととて一番喜んだのは母親。毎日自宅から司令部へ通った次第。戦争もそろそろ終盤に近く四月に入って本土決戦に備えて北九州を防衛する護州兵団が広島で新しく編成されることとなり、私はその要員に選ばれた。母や親戚のものは何とか広島に残れないものかと運動を起さんとしたが、(軍隊には可成りの情実があったようだ。)私の叔父が人は運命に逆らってはいけない。命令が出た以上それに従うべきだと強く主張したため命令通り北九州へ行くこととなり暫くして無事終戦を迎えた。無理をして広島に残っていたら原爆によって恐らく生きていなかったことだろう。悪運が強いと云うのか、私が今日あるのは叔父の言に従って命令に逆らわなかったからであり、昭和二十年四月は正に私の人生の最大の岐路であったと思う。(尤も私の実家は原爆投下の中心地に近かった為家は焼失、母などはその犠牲者となったが)「運命に逆らわず」こそその後の私の人生観である。

 ○「長生きしよう」

 私はお蔭で今日迄大病は一度もせず何とか健康を保つことが出来た。しかし老化は既に数年前よりおし寄せており、無理をせず身体には十分気をつけているつもりだ。健康法としてはこれと云ってやっていないが早寝早起に心掛けると共に疲労の累積が一番よくないので夜更しもゴルフも連雀はしないことにしている。煙草を止め酒の量を減らすのがよいらしい。五月中旬二週間アメリカヘ行ってきたが、煙草を吸う人が本当に少くなったのには驚いた。未だに止める決心がつかず程々にしたいと思っている。
 お互いに老境に入っているので十二分に健康に留意して皆揃って五十周年、六十周年が迎えられるよう長生きしたいものと希っている。

 


卒業25周年記念アルバムより