3組  坂田 建樹

 

 四十年の昔、入社試験を受けたのは、三菱の江戸川化学KKだった。その当時は、おやじのゴム事業を継ぐ意志はなく寧ろゴム屋にはならんとの覚悟だった。然し皮肉にも大東亜戦争の勃発で学徒動員第一号となり、軍服時代は五年間の長きに亘り、昭和二十一年内地帰還除隊となったが、その間勿論三菱の会社に籍があって留守家庭には月給も送って頂いていたが、父の病身、弟の未帰還、自社再建のための運命は私をゴム屋に引き戻してしまったのである。私の父の生涯はゴム事業一本槍、一口に云えば七転八起の波乱人生と云えるだろう。製造工場も営み、販売会社も五十名近くでやっていた。昭和の初期の大不景気時代には、中国の上海に靴の工場を設けて積極策を取り、事業も当ったが、三、四年で上海事変の為涙を飲んで引き上げてしまった。大東亜戦でも自社工場は全く爆撃で跡形もなくやられた。父は最後に自分の好きな仕事をやれと云ってくれたが、我が意を得たりと喜ぶ筈の自分が反対にどうしても会社を立て直してゆかねば社員達に済まぬと云う心底に変ってしまった。そして結局後を継いだ。

 昭和二十三年一月より三年間、私は大阪支店開設による責任者として大阪に店住いし、多くの関西人と交際し又たまの関西商売を知る機会を得た。而して東京に戻っても既に父は病床に在り、苦難の経験やゴム事業の真髄を聞く貴重な機会は全く無いに等しかった。いわゆる基礎練習をみっちりやっていないゴルファーの如く、プロのゴム屋にはなれなかったのだ。運命は度々自分の意志に反し、其の後の歩む道を変えたが、現在はやはりゴム屋である。四十年の長い人生航路をしっかりと歩み、漸く停年退職で悠々自適の環境に入られた仲間も次第に増えつつあるが、私の場合は、自分の事業を一生守り、次代に受け継がせてゆく任務があるので恐らく死ぬまでゴム屋の道を離れることはないだろう。

 今卒業四十周年記念の年を迎えて、自分の一生を振り返り、さてこれからどうす可きか何をやる可きか、新たな気持で明日に向ってゆく心境である。

 


卒業25周年記念アルバムより