3組  柴沼富国

 

 東京商科大学を田舎(茨城県土浦市)の中学より受験したいと希望したのは、旧制高校に入っても三年後に再試験があり勉強するのも容易でないし、経済界では名門であり、先輩後輩の間が非常によいし、のんびりしていると云うので六年間好きな油絵や陸上競技でもやりたいと志したものである。

 四年から受験も出来たのでーー入られた秀才もおるがーーやってみたが、よく分らぬ中に終ってしまい、殊にディクテイションには困った。
 然し雰囲気と大体の傾向は分ったので、次には何んとか入学出来たものである。
 小平の新しい寮は真面目な新井隆君、石川健一君が同室で、隣は尺八を吹く金井多喜男君と大人びた感じの金子圧一郎君であった。
 誰かの部屋で母親が箒とハタキをもって来たが、その男は次の日から万年床で一度も掃除しなかったと云う伝説がある。

 ストームと哲学的、或は世俗的な討論会には驚いたが馴れればストレス解消にもなるし面白くなった。アリストテレスの『形而上学』が始めて読んだ哲学書であるが、プラトン、スピノザ等は分る気がしたが、どうも単細胞の故か、近代的なものは言葉のもて遊びの如く駄目であった。

 地方では音楽も流行歌くらいしか聞いたことがなく、シューベルトの『未完成交響曲』を初めて聴いたときには感激して、それからべートーベン、バッハ、ショパン等の古典をよくきいた。近代音楽は、ラロの『シンフォニー、エスパニオラ』くらい迄でどうも新しいものは感情的に受け入れないのは古い人間なのかと思う。

 あらゆる芸術の分野においても、その人の体質、性格によって好き嫌いがあるのは良し悪しは別にして仕方ないものであろうし、又それはそれなりに様々の作品や仕事も出来るのではないかと思う。私は梅原龍三郎は好きで安井曾太郎は嫌いで、ゲーテは好き、シラーは嫌いであるが、この反対も可能であろう。

 今でも月二回くらい東京の『あひる会』(チャーチル会程有名でないが)に入ってモデルを使ってクロッキーをやっているが、同じモデルでも肥って描く人もいるし、やせて描く人もいる。各人の好みと個性が出るし、それは各人の人間性そのものの表現であり、自分自身の追求なのである。私ももう少し家業でも軌道に乗りゆっくり絵を描きたいと想いながら仲々果せないでいる昨今である。

 陸上競技は成績はあまりよくないが、新坂建也君、中牟田君、松島君、斉藤君、野村君等と三商大戦で神戸、大阪に行った想い出は懐しい。槍をもって『つばめ号』でゆくのが嬉しかった。甲子園野球場の近くに合宿し浜までゆくのに網戸の電車に乗った涼しさも忘れられぬ。
 最後の合宿を静岡でやり、大きな苺を食べ帰宅すると肛門の周りがはれ上り痛くて座れたくなり、外科医にゆくと直ぐ手術入院となった。痛みはなくなったが場所が悪く仲々完治せず、十二月の兵隊検査では第二乙種になった。何が幸いするか分らぬものである。
 然し陸上競技のお蔭でクアラルンプールで武装解除され、大八車を曳いてシンガポールまで歩かせられたが疲れもせず、四五歳より始めたゴルフもハンデー十三迄になったのもその故かなとも思う。
 長男も一橋で同じく陸上競技部に入り、卒業のとき「親爺の記録はみんな破りました』と挨拶されたが今は栄養がよいからだと答えた。
 親子二代競技部は初めてなので、結婚式には水上達三、尾本信平大先輩を始め多くの一橋の方々が来て下され、最後に『長煙遠く』を合唱してくれ、一橋ならではの情景であった。

 戦時中シンガポールでは一橋出身者が多く居り異国の感は全くしなく国立の延長の様な気持であった。十二月クラブの方々にも多く逢い、中にはそれが永久の別れとなった人もいる。
 殊に高瀬学長が来られたときくらい母校の力を大きな団体として感じさせたことはなかった。当時同じ寮にいた石川善次郎先輩が秋草篤二氏と同じ社宅におられ、昭南島の日本女性を招待するパーティを開いて下され、その中に家内がいたわけで出合は偶然である。最近でもお逢いすると「ヒロノさんは元気ですか」と尋ねられて頭の上らぬ先輩である。
 中山素平先輩も直属上官で、当時から興銀頭取になる方と云われ、秋草さんは優秀なビジネスマンで知られ電々公社総裁になられたのもむべなるかなと思う。

 昭和二十年二月に弟が比島で戦死したので家業をやらざるを得なくなったが、昭和二十一年二月十一日に帰宅してみると幸い工場は残ったが老朽化し、農地解放、新円切換え、財産税で今迄の蓄積もなくなり、壱万五千円で再スタートすることになった。三〇年間金に苦労しなかった罰で、これから金の工面をする仕事が始まった。何しろ五千石あったモロミが三〇石桶壱本になり。年間出荷五千石は参百五拾石まで下り、従業員も残ったのは工場五名、番頭三名で高年齢となり原料も出荷も配給制の為これではどうにもならず大日本麦酒に引続き勤務することになった。家業に専念したのは統制解除の二十四年からである。帰国した年は百石出荷するのに一月より八月迄かかったが、今では一日で可能であり全国約四千社の中三〇番くらいまでになれたのはいち早く近代化した為であるが、これも水戸の常陽銀行に如水会の三宅亮一頭取がおられ、地元土浦に戦後出来た関東銀行に石原秀太郎頭取が就任され陰に陽にご援助賜わったお蔭である。お二人とも長命で泰山会(大正三年卒)で同級生であった。
 醤油業界ではキッコーマンの茂木啓三郎氏と同級の戸館博常務がおり、色々好意的にご指導を願ったことも有難い学校の余得である。

 次男も一橋卒で三井物産に勤めているが、低成長になると今迄よかった借金政策も重荷となり支払利息の大きさを今更の如く感ずるのであるが、『金利と利益と競争しない企業はないし、それを克服するのが親爺さん腕だよ』とたしなめられてしまった。企業は無限であり人生は有限であるとすれば、限りなき前進を夢みて一歩一歩苦闘して生きてゆく外ない。

 川口君、倉垣君より原稿依頼の電話あり、川口君には大串君、熊谷長君等と予科祭で女装したのを想い出し、倉垣君は太宰治とのこと。又木島君、亡くなった里見君等とアルプス銀座に誘われて行ったことが浮んで来た。『銀座』と云うので軽い気持で参加したら槍ケ岳の山頂まで登り、ガスがかかると二米先も見えなくたり、それ以来子供達には、毎年海につれて行って泳がせたが山登りだけはさせぬ事にした。

 私事に亙って申し訳ないが想い出は書けば限りない。私は一橋に入ったことを感謝し、先輩、同級生、後輩とのご交誼を有難いと思っている。或はこの心が男の子に通じて二人とも一橋を選んでくれ、お蔭で学費は安く上った。家内は日本女子大であるが、長女は東京女子大。次女は「お茶の水」なので私の学校に入ってくれぬと嘆くことしきりである。娘達は『お母さん、昔と今は違うのよ』と云うが、母校への愛情は想い出とともに、男女とも変らぬものであるらしい。

 


卒業25周年記念アルバムより