3組  下田 友吉

 

 家の庭へ出ると、村の裏山越しに、北アルプス剣岳の頂きが見え、村はずれの大岩川の橋の上からは北アルプスの山々が迫って来るようにそびえ立って見える山の村が私の生地である。今は富山県中新川郡上市町といい、剣岳も同じ町の地域内にある。町村合併前は上市町区域の在で戸数三〇〇程の小さな山村であった。

 代々は旧上市町内の商家であったが、私の生れる直前大正七年四月に母の里である柿沢村に移住した。父はその直前まで石川県小松在の遊泉寺銅山で働いて居ったが、大戦中の銅ブームで小金が出来たのか、母の里に家を買い隠居でもしようと思ったのだろう。その年の八月に私が生れたが、その秋には全国的にスペイン風邪が大流行し、父もその猛威の犯すところとなり大正七年十一月四十歳の若さを以て死ぬこととなった。金鶏勲章の恩給などもあり比較的裕福だった我家も、東京の大震災で親戚などに貸してあった金も取れなくなり、私が小学校に入る頃はすっかり落ぶれ、父の買った家も売払い、村の小さなあばらやが我が家であり、今でいう母子家庭であった。昭和四年の七月私が小学校五年の一学期を終えた時、それまでに東京に出て一家再興を計っていた兄が、兵隊検査で籤のがれになったので、二十歳の若さで独立し、富山から一家を東京に呼び寄せることとなった。

 十一歳で東京に出るまでの田舎の山村での期間は私の人生の第一期とすれば、東京に出て中学を終えるまでが第二期、一橋に入って現在までが第三期であると考えている。第三期が長過ぎるようだが、それだけ第一期、第二期は短いながらも波瀾に富んだ期間であったことになる。貧乏になれた天心爛漫の田舎の山奥の子が東京の日暮里第三小学校に入り、東京言葉が恥しくてよく喋れない頃、中学校の受験勉強に目醒め、小学校六年の一年間は兎に角勉強しなければならなかった。子供の生活のこの大変化のため、私の性格もその頃大きく変ったように思われる。まぐれ当りで、東京開成中学校の入学試験に合格して、入学して見ると、東京育ちの同級生達の博学多識で生活の豊かなことに感心させられ、凡ゆる点でインフェリオリティを味はい、元気のない胃アトニーもちの青少年になってしまったのが中学時代である。

 四年で商大予科を受けたが、惜敗苦汁を嘗め、翌年は一高を受けようと一年間目茶苦茶に参考書を読み、寝る時間もないような猛勉をした。一生の内であの時期ほど努力したことはないと今でも思っている。受験の時期になり、一高受験を兄に申入れると言下に断わられ、商大予科を受けろと命令され、その言葉に従わざるを得なかった。兄も一橋を知っていて命令したのではないだろうか、最近十二月クラブの事などを酒の肴に話すと「そんなにいい学校だったのか」と共に喜ぶこともある。

 開成という学校も、一橋以上に古い伝統のある学校であり、よき親友を多く与えて呉れ、私の今の仕事も大きな助けをその友人達から得ている。

 齢い六十二年、山の子供から、都会の大人になり、人生の有為転変を思う今日この頃、或種の人生の達観を会得した様に感じている。若い頃のように張りつめた精神を持ち続けるには少々心身共に疲れたのであろう。名誉欲も財欲も今は努力してまで求めようとは思わぬ。幼にして父を亡い、母と兄の手で育ち、幸いに一橋に学ぶことが出来、精神生活の面でも、家庭生活の面でも、一歩一歩と向上の線に沿って今日まで来た我が運を思うとき、これが最上の昇りづめではないか、これから先大きな誤りを犯して奈落の底へ落ちることのないように、神仏に感謝を捧げて、いつか果つることのある人生をその時まで静かに、人に憎まれず、人を憎まず、家族友人同僚有縁を愛し、心に若さを持ち続けて生きようと思っている次第である。

 


卒業25周年記念アルバムより