3組  関 大一郎

 

 人生の終点まで見える峠に立って、今迄歩いて来た道を振りかえると、彼には少し変なことが多すぎる。これから安穏に墓場にたどりつけるのか(或はまだ変なことがあるのか今の彼には分らなくなって了った。

 智慧封じ

 あまりにも騒がしく、然も長く続くので、彼はその部屋に這って行った。其処では長火鉢の向うで、おじいさんがキセルで火鉢の縁を叩きながらこう云って居た。
「お前はものの仕末がわるい。使ったその手で、なぜしまわぬか。」
 おばあさんはこちら側の縁に両手で三つ指をつき、その上に頭をのせて
「私が悪うございました」
 としきりにあやまる。赤ん坊の彼はこれを横目で見て、こんな事に大声を出して……と批判し、詰らないのですぐに次の部屋に這って行った。

 別の日、赤坊は立てそうな気がして、襖につかまって立ち、歩き始めた。部屋の中程で倒れた時、おばあさんと二人の女とが「お誕生前に歩いた」とほめて呉れたのだが、赤坊はさっばり嬉しくない。向うまで歩くのに失敗したのだから。
 その後急に記憶が無くなり、彼は普通以下の馬鹿な子供になる。今彼が孫と見較べてそのことははっきり分るのだ。心というものが無くなって居た。

 十八歳になる頃、母が仏壇の前に彼を坐らせて、こう云った。
「君の智慧は四国の松山の香園寺に預けてある。お詣りして貰って来なさい。」
 彼はビヅクリしたような顔をして見せ、早速四国に行き、三日泊って子安大師から「チエ」を返して貰ったのだ。日支事変が始まり、彼は中国問題の勉強を始め、二年後一つの構想が出来上る。中国は自由と共産の二国に分かれる。日本の心と、中国の覇気と、ユダヤの、国際感覚とを合せれば、世界平和の達成も出来るだろう。彼が今も偏執狂的に自由中国を考えて居るのは、中国と世界の未来に対する見通しが四十年後の今も的中して居た為だ。

 片想い

 これは書きたくたいのだが、中学時代の仲間がまだ誤解して居るので、はっきりしておく。彼は小学校三年一学期第一日目に、初恋を始めた。彼女がどこかの「馬の骨」と結納する迄、彼は黙って居た。恋が不発に終った時やっとラブレターを出した。彼女と恋にさよならの手紙で……。
 そしてソッケない返事を貰った。祝言の僅か前、彼は用事で彼女に会った。

「君の手紙一度読んで、押入れにしまったよ。」
「なぜ」
 と彼女。そこで万感のオモイをこめて言ってやった。
「未練だから」
 それから蜜豆かなんかを御馳走になり、十年来の片想いは終った。

 翌年五月彼女の夢を見て、彼は母親に報告する。「セーラー服で家に来たよ。」母は彼女はまだ結婚して居ないと云い、私の書いた地図を頼りに先方に行き、結婚をとり止めて居たことを知ると、彼女の母との頭首会談で、一発で決めて帰って来た。
「君はどうする」と母。
 そこで私は三時間考えて彼女との結婚を承諾した。後で聞いたら、彼女は三日考えたと云う。かくして老妻はつまらぬ男を選び、今でも失敗したと云うのである。

 蘇生

 戦争に行き、戦争が終り、彼は西貢で一人広東人の家でまだ世界平和を考えて居た。
 或朝食事の米飯に土の臭いがした。これはいけない。考えると十一日間眠らないで考えて居たのが悪かった。彼は馮さんに、死んだらビンホアのザボンの根元に埋めて呉れ、然しもしかすると生き返えるから、決して死体を焼くなと頼んで、愈々その晩死に始めた。
 足から冷たくなり、腹迄冷たくなった時、完全に精気が抜けて意識が無くなった。その前に彼は三つのカケをして居た。
「俺の世界平和への考が正しいなら、
「それが出来るなら、
「世界中の人がこの平和を喜んで呉れるなら、
 俺は生き返るだろう。

 右腕に針の先でつかれたような知覚を感じ、その廻りがしびれ始め、そのしびれが肩迄来た時、再び意識を失って、翌朝眼が覚めた。
 彼の体に入った生命は何だったのか、今でも分らない。只、少し変なことは、戦後三十五年、彼と妻の兄妹十三人の家族で、交通事故がない。彼の計理の得意先にも一人も居ない。得意先の主人で死んだ人が居ない。破産が一件もない。何かツイて居るのだ。

 椰子の梢

 石のお地蔵さんが口をきくか。確かにその言葉を彼は聞いた。
 終戦の翌年彼はベトナムのビンホアに居た。毎朝友達のベトナム人の家を出て、森の中でフランス軍の追求からかくれていた頃の話である。村外れの小さな祠に、九天聖女と書いた紙が貼ってあった。或朝手を合せると、変な言葉が胸にひびいた。
「今日は今迄で一番危い日だ。気をつけなさい。」
 それで彼は川を泳いで対岸に行き、一番高い椰子の梢で「危険」に対して身構えたのだ。

 梢の上で昼寝をしていると、ベトコンが七人位現れて彼を探し始めた。居ないと分ると彼等は怒り出し、まわり一面の草むらに銃を発射して引上げた。彼等はハノイに出発する日だった。彼がハノイ行を拒めば、殺されたであろうし、一緒に行けば独立戦争の露と消えたに違いない。四十日も森の一点に坐っていた日本人が、その日椰子の梢から見下ろして居るとは…。ちなみに彼はその時始めて椰子の木に登ったのだが、梢は案外居住性の良いものである。

 橋の下

 生き返った彼はこの世でこわいものは無くなった。毎日サイゴンの巷を歩き廻って居て、シヨロン近くの三又の橋に来た。下の青黒い水を見て居て、何か死にたくなった。そこで橋の下に寝て、絶食して死のうと考えた。
 夜、犬の遠吠えで目を覚した。まわりが血なまぐさい。空気も、土も血の臭いがする。突然彼は熱い不動明王のようなものに押えこまれた。彼はふと考えた。戦争で死に、浮ばれて居ない仲間が来たのではないか。それで彼は苦しまぎれに一声出した。
 「たむあみだ仏、去れ」その言葉で不動明王のようなものの力は弱まり、消えて了った。血の臭いもなくなって居た。
 彼にとって自由中国問題、即世界平和研究は、二百五十万の若者達への鎮魂歌である。諸君は成仏して呉れたのかと、彼は朝迄橋の下で哭き続けた。

 世界平和

 彼が考える平和の為の三つのテーゼは。

 一、世界の諸問題が解決して平和が来るのではない。恒久平和の枠組が出来て、その中で諸問題を解くのだ。思想にせよ、資源にせよ、環境、南北、あらゆる問題が今一斉に人類に襲いかかって来ている。平和という鍋にすべて一緒にたたきこんで煮る他はない。手順を問違えると希望も展望も消える。
 二、世界平和は世界が対象ではない。個々の国家が恒久平和の体制に入る時、総和として世界恒久平和が現れるのだ。世界という大石を動かす力は世界に無い。大石を構成する百五十個の小石を平和に向ける事は出来る。世界という大石はその時平和に向って居る筈ではないか。
 三、一つ一つの国を如何にして恒久平和の体制に進ませるか。

 釣をして頭を冷やし乍ら、四十四年も考えたことを、簡単にお話しする訳には行かないし、出来もしない。第一、彼自身もそれが実現すると、はっきり考えている訳でもない。一つだけ云える事は、六十二歳の彼は予科時代よりももっと若く、もっと野望に満ちて居ることだ。そして墓場迄の僅かな年月に、世界にも強烈な試練の時代が来る。