3組 二木 正治 |
卒業四十周年記念文集寄稿再三のご依頼にも拘らず提出延引の段、恐縮です。テニスのことでもと、川口君のおすすめがあったので思いつくまま一筆しました。テニスと小生との因縁はフト気がつくと、もう五十年以上も過ぎているわけです。 軟式王国と云われた旧県立徳島中学校の庭球部が硬式に変ったのは昭和六年(小生が一年生)の夏休みのことでした。朝日新聞が中学野球を甲子園で全国大会を開催した同じ時期に、毎日新聞が浜寺公園で全国大会を開き、そのほか今の国民体育大会の前身明治神宮大会と、高松高商主催の四国大会に出るのが楽しみでした。 経験者の少い一橋の実力では早慶など名選手の技術を真似ても対校戦には絶対に勝てないから、如何に長時間戦えるかというロブ戦法を地味に練習せよとの有難い諭しと受取って、その後の練習や後輩の指導に心掛けたことでした。 この先輩には昭和三十四年半年の名古屋単身赴任の間、テニスや一杯飲みに大変お世話になり、又日本庭球協会の理事会には長年並んで坐る間柄である。入学して一ヶ月位の頃にジュニア大会があり、たった一人で誠に心細い思いで出場したが、過日の牧野先輩の細かい指導を頼りに、猪の如く前進、前進、又前進の戦法で通したら調子が出て来て、変な奴がいるぞと評判になり、早稲田の大将になった中原君にもとうとう勝って優勝してしまった。そのため関東学生にも全日本学生にも一年生から出られることになり、夏休みの全日学生では色んな大学の主将やマネジャーのベテランに当てられ準々決勝に残った甲子園の思い出があり、四五年上級の他校の先輩方とおつき合が未だにつづいているのは幸である。 テニス人口を増やそうと云うのが昭和三十年頃の至上命令であったが皇太子妃美智子様ブームから此の節のテニスブームで底辺は大変拡がって来たものの、日本のトッププレーヤーが世界のランキソグニ百何十番では誠に残念で仕方がない。 話は変りますが一昨年秋二十日ばかりスーパー業界の教育視察にアメリカ一周をした時、アメリカ全土にスポーツのプロショップが繁昌しはじめ、方々で感じたことはラケットではヤマハのFRPが最も高く、木製のウイルソンにガットを張って七ドルと云うベラボウな安値が沢山の店に並んでいたことがあった。地方都市徳島にもダイエー、ジャスコ、ニチイたどのショッピングセンターが進出し競争激化の波が押しよせる中、二十三店と三配送センターの千二百人の教育専念の三年間、テニスのプレーから遠ざかっていたので今年から積極的にコートに出たいと張切っている今日此の頃です。お互いに健康で長生きをしましょう。 |
卒業25周年記念アルバムより |