3組  野田 勝哉

 

 中学で習い、予科に入ってからも亦付き合わされた「論語」については、大そう固苦しい内容で、而も古めかしい本であったという記憶しか残っていなかったが、他方では簡潔で調子の良い文章で構成されていたという印象もあり、後者の特徴をもう一度確かめてみたいと思って、新書版論語をかねて入手しておいた。
 小生は勤務地は大阪で、東京との間を往復することが多く、「ひかり」利用の時は三時間も眠ってもいられないので、この新書を携行して何度か往復して斜に読んでいるうちに、昔の教科書にはのっていなかったような興味ある文章を見付けだした。そのうちの「ハチイツ編」から二章ばかりここに紹介してみたい。

 その一つは「子曰く、射は皮を主とせず。力の科(しな)を同じくせざるが為なり。古の道なり」とある。その意味は「弓射は的に当てるのを主目的にしている。矢がどこまで深く的を射貫くかは問題にしていない。これは先天的に腕力の差があるので、この力の差を問題にしないと云うのは如何にも君子の争いらしい。古の道の模範ではあるまいか」と解釈されている。
 成る程真向から読むとそういうことになりそうだが、ふと孔子は小柄で非力な人だったのではないかという想像が生れ、そうすると弓の競技では何時も力自慢の相手に「どうだ、こんなに深くまで的の皮を貫いたぞ、俺に敵わないだろう」と威張られて、内心口惜しいのでこんな云い方をしたのではあるまいか、とも考えられる。もしそうだとすると孔子も人の子、案外負けず嫌いの皮肉屋で、聖人らしい尤もらしさの表現の裏で、力持ちをやんわりと椰楡しているようでもある。
 こうなると修身の教材のようで、固苦しい孔子のイメージが、ぐっと親しみ易い人物像に変ってくるのだが、こんな勝手な解釈をすると、漢学者やら、最近孔子に高い評価を与えている中国から、それは見当違いも甚しいと一喝されるかも知れない。
 この文章を拝借して、「射」を「ゴルフ」と読み易えて、ロングヒッターを冷やかしたり、或は己の飛びの悪い時の言い訳に使うと極めて適切である。「ゴルフは飛ばせば良いのと違いまっせ。入れてたんぼや」という云い方と同じになるが、こんなことを孔子様が申しております、と云うと大いに箔がつく上に、面白味も出てくる。

 もう一つは「子曰く。君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲(いつじょう)して升(のぼ)り下り、而して飲ましむ。其の争は君子なり」と。その意味は「君子は争いごとは好まないが、例外は競射である。相手と互に挨拶をかわして、譲りあって射を行い、勝った方が負けた方に罰杯を飲ませる。万事礼に従った争いぶりは君子にふさわしい」と。この解釈は敢てひねってみることはなさそうで、「射」に於けるマナーの良さを説き、たとえ争であっても勝負にこだわるものではない。勝者は謙虚に敗者に酒を飲ませればよいので、勝者は威張らず、敗者も惨めな思いをせず、双方さわやかに勝負のあとは楽しく語りあう、ということを教えている様である。

 紀元前五百年にかくも立派なスポーツ精神が既に出来上っていたのか、又は君子でも勝負に拘泥する輩が少なからずいて、孔子が夫をさとしたのか、それは判らないが、我々も共感する処が多いように思われる。この文章もエチケットを重んずるゴルファーには良く理解出来るが、片や射は敗者が罰杯とは云え飲ませてもらえるが、片やゴルフは敗者がチョコレートを取り上げられる点が全く逆であり、現在孔子様がこのゴルフのベットのしきたりを聞かれたら、果して何と云われるであろうか。

 処で茲に挙げた孔子の二つの発言は、コンペでブービーやらメーカーになって、挨拶をさせられる羽目になった時に用いて誠に適切であり、孔子様の権威と名声を背景にして堂々と負け惜しみを一席ぶてるので、仲々好評であったが、最近は残念乍らこの手の挨拶をしなければならない機会にも恵まれなくなったので、敢てここに御披露する次第である。

 


卒業25周年記念アルバムより