3組 水田 洋 |
1 ぼくの『ある精神の軌跡』の書評のなかで、菊地昌典(東大助教授)が、一橋出身者のすさまじい団結力におどろいた、とかいている。この団結力は、だいたい、東大への対抗からでてきたのだろうが、東大の側には、自分たちが権力の座にあるという自覚がないので、在野の対抗勢力が異様にみえるのだ。そのうえ、東大のばあいには、大学よりも出身高校による団結のほうが、つよいようである。しかしとにかく、「おどろいた」という菊地が、東大側から(自分ではアウトサイダーのつもりだろうが)発言しているので、あまり説得力はない。 批判としては説得力がなくても、それが戦時中のぼくの生活をかいた部分をさしているなら、事実の指摘とLてはあたっている。なぜなら、ぼくはそこで、学歴社会内の一集団としての如水会がもつ秩序が、占領地軍政をふくむ軍隊秩序のなかに、どう浸透していたかを、かこうとしていたのだからである。軍政という、いわばシャバの世界をかかえこむことによって、軍隊秩序が純粋につらぬかれず、如水会秩序が浸透しやすかったのでもあろうが、たとえば、村井少尉が太田上等兵に敬礼している光景は、軍政とはかかわりなしに、軍隊のなかの如水会の姿なのであった(太田先輩が貸物廠にいたことも、敬礼の有力な理由だっただろうが)。 2 ぼくが陸軍属として、神戸から安芸丸で出発したとたんに、如水会秩序は作動しはじめた。一万二千トン、一六ノットというような、軍事機密にぞくする船の性能が、たちまちわかってしまったのは、専門部出身のパーサーがいたためらしい。この貸客船の船室は、佐官級にあてられ、尉官以下は、船倉のかいこ棚におしこめられたが、ぼくは毎日、船室のサロンでうりだされるビールをのむために、船倉から甲板へはしごをよじのぼっていった。 ぼくは東亜研究所からジャワヘ派遣されたのだが、おなじ船で東亜経済研究所が、マライ、シンガポールの調査を担当する一団を派遣したので、佐官級船室には、石田竜次郎教授などがいた。予科でいじめられた腹いせに利用したわけではないが、ビールをのみにいく口実にはつかえたのである。 シンガポールでは東亜経済研究所の人びと(早川泰正がこのなかにいた)のほかに、ピストルを腰にジョホール水道をおよいでわたったという、千田図南男先輩のお世話になった。このときがきっかけとたって、千田先輩には、戦後も日航を利用するたびに、いろいろご配慮いただくことになったが、数年まえにがんにおそわれて、再起しなかった。 シンガポールからジャワヘの船にのるときに、波止場にむらがっている同船者の一団のなかから、声をかけられた。ぼくがではなく、見おくりの杉本栄一教授がである。声の主は、朝日新聞のジャワ支局へいく内藤達治先輩であったが、もし杉本さんがいなかったら、ぼくは内藤先輩と同船しながら、しらずにすごしただろう。 こういう偶然のであいが、いくつかかさなって、ぼくはジャカルタ如水会に参加することになった。いわばふらりとまいこんだかたちのぼくを、どうして如水会がつかまえたのか、いまとなってはとてもおもいだせないが、当時、軍政三人男とよばれていたトリオのなかに、山岳部の先輩、森脇芳之中尉がいたことも、網の目のひとつであったかもしれない。 鳥居博という、文芸部の先輩として名前だけしっていた人が、ジャカルタの国際電々にいることがわかったのは、おそらく如水会のパーティの席でのことだっただろうが、その鳥居先輩の好意で、タイピストを利用させてもらっているうちに、ある日、「こんど鈴木栄二君がきたよ、君しってるだろう?」といわれた。オジョウなら東京府立一中の四修ではいった仲間であり、予科のクラスでも文芸部でも高島ゼミでも、いっしょだったのだから、「しってるだろう」どころではない。数日後にあったオジョウは、例のごとく、つまらなそうな顔で机にむかっていた。 それから終戦まで、ジャワでのオジョウとのつきあいがつづくのだが、オーストラリアのシェリを何本か、二人でのみあかすというばかなこともやった。かれがしばらくバンドンで勤務していたときは、出張のついでに夜の案内をしてもらったおぼえがある。しかし、もうひとつ、陸軍病院にかれをみまった記憶のほうは、事情がよくわからない。戦争末期に現地召集でもされたのかとおもう。記憶がのこっているのは、そのときかれが、「水田はここの看護婦にもよくしられてるんだな」と、あきれ顔でいったからである。たしかに、ぼくは盲腸炎で入院して以来、日赤福島班のいちばん若い看護婦にほれて何度もかよったので、有名になったようだ。「学閥」関係でいえば、この看護婦の伯(叔)父さんが、専門部出の主計中尉で、スカブミという避暑地の警備隊にいたし、病院の主計も如水会員だった。 3 帰国する鳥居先輩をおくって、クマヨラン飛行場にいったときである。その飛行機が離陸したあとに到着した海軍機があって、白服に短剣の海軍大尉がさっそうとおりてきた。いちばんさきにみつけた兵隊が「ケイレー」とどなると、いっせいにたちあがって手をあげる。ぼくも軍属の下士官待遇だから、しかたなく手をあげながらその大尉の顔をみた。顔をみるのも敬礼のうちなのである。ところが、顔をみたら、あげかけた手がとまってしまった。「なんだ武川じゃないか。」武川祥作海軍主計大尉の着任であった。 時間的にこれよりあとかまえか、わからなくたったが、ある日ベチャというリアカーを逆にした乗物で軍司令部のちかくをとおりかかったら、「おいおい」と陸軍少尉によびとめられた。もともと、勤務時間中にそんなところをうろうろしているのがおかしいうえに、少尉どのとあってはやはり敬礼しなければならないのだ。説教のひとつぐらいは覚悟しなければならたいかと、観念したときに、むこうから声があって、「加藤泰弘だ。」 なにしろ、軍人・馬・犬・鳩・軍属といわれたように、この社会ではいちばん地位がひくいので、やたらに敬礼しなければならない。形式的には、曹長待遇だから、軍曹以下の下士官・兵は、ぼくに敬礼することになっているのだが、そういう純情なのは、召集されたばかりの通過部隊の兵士ぐらいで、多少事情がわかるようになると、完全に無視である。それだけではなく、人事の書類が、軍人のばあいは航空機をつかうのに、軍属のばあいは船でおくられるから、ぼくの奏任官(中尉待遇)任官の書類も、阿波丸とともに水の泡ときえてしまって、ついに下士官のままで終戦になった。捕虜の通訳をしているとき、オーストラリア軍のロビンスン中尉が、「君みたいなのを下士官あつかいにしているから、日本軍はまけたんだよ」といった。 これまで、三人(シンガポールの東亜経済研究所にいた早川をいれれば四人)との出会いをかいてきたが、じつは、十二月クラブのメソバーで、ジャワでいちばんよくつきあい、いちばんお世話になったのは自動車隊の村井秀雄隊長である。ジャカルタ防衛隊に所属するが、イソドネシア人兵補を中心として、日本人下士官数名をふくむ村井隊は、車輛置場の関係もあったのだろう、防衛隊からかなりはなれたところにいた。いつどうして出会ったのかが、どうしてもおもいだせないので、かくのがあとまわしになってしまった。あるいは、いつからはじまったかわからないほど、ジャワにいたほとんど全期間にわたって、つきあっていたということかもしれたい。 ぼくがジャワ時代の後半に、食糧管理局に転属して、米穀集荷の調査をうけもったこともあって、村井隊の車をずいぶん利用させてもらった。一度などは、スワンディという隊長お気にいりの兵補の運転で、とおく中部ジャワまでいってしまったが、ばれたらえらいことになっただろう。だいたい、まえにかいたように、ぼくは曹長の位なのだから、乗用車にのる資格がないのである。バニュマスの兵姑宿舎では、無資格の軍属が車でのりこんだうえに、兵補といっしょに食事をしたというので、担当の下士官が文句をいってきた。 チレボンの農村暴動の直後にのりこむときも、途中で村井隊の車をつかったし、西部ジャワのインド洋岸の防衛工事を村井といっしょに見にいったこともある。自動車隊というものの性格から、島内あちらこちらの仕事にでかけるので、おなじ方向に仕事があるときは、じつにありがたかった。ついでに、どこのいなか町に、うまい豆腐があったとか、うまいワンタンがあったとかいう情報もはいってくる。 チレボン暴動よりまえだったとおもうが、ぼくはマラリア地帯の米作の調査にいって、マラリアにかかり、高熱のため昏倒していなかの病院にはこびこまれたことがある。ジャワにはキニーネがたくさんあったので、マラリアはなおったが、副作用で黄疸になってしまった。黄疽にはしじみがいいとだれかがいいだし、ジャカルタの南、スカブミにちかい湖畔で、療養することになったのだから、戦争などどこにあるという調子だった。 それでも、村井隊のほうは、そんなのどかなことはいっていられず、演習にでかけていって、どこでどういう連絡がついたのか、ある日のひるごろ、部隊がスカブミを通過するから、そこであおうということになった。約束の日に、すこし早目にスカブミについて、ぐうぜんにチェコスロヴァキア製の鉛筆をみつけて悦にいっていると、やがて村井隊が車輌をつらねてやってきた。顔みしりの兵補がぼくをみつけて、タイチョードノのところへ案内してくれる。かれらのあいだでは、ふたりはスダラ(兄弟という意味だが、かなりひろくつかわれる)だということになっていた。 「おい、山芋みつけてきたぞ、スラビンタナでとろろをくおう」と村井がいう。ところがここでまた難題があって、スラビンタナというのは、山上の高級ホテルで、ぼくがジャワでいちばんすきだったところだが、軍属にはとまる資格がないのである。「田村中尉にたのもう」ということになって、村井がたのみこむ。田村中尉というのは、まえにのべた専門部出身の主計で、スカブミの防衛隊に属し、したがってホテルもその管轄下にあった。「おねがいします」というわれわれを、田村中尉は、こまった連中だとおもったかもしれないが、許可してくれた。 とろろをたべ、酒をのんで、おしゃべりをしたあげく、ひとねむりすると軍務に忠実な隊長は、夜あけの山をくだってジャカルタにかえっていった。朝霧が部屋にながれこんで、なまけものの軍属は、さらにひとねむりしたあげく、またしじみをたべにいった。 こんなことをしていたある夜、ジャカルタ如水会の長老、兼松の藤原さんのうちでのんでいたとき、藤原さんが、「村井君も水田君もきいてもらいたいのだが」とあらたまっていいだした。藤原さんたちの学生時代に、一橋のいちょうはなぜおおきくならないのか(一橋人はどうしてスケールがちいさいのか)という議論をしたというはなしで、これはすでに如水会報にも『軌跡』にもかいたから、くりかえさない。あとがき的にかいておきたいのは、如水会報のぼくの文章を、大宅壮一がみつけて、「前だれ大学・一橋」(文芸春秋?)に引用し、この大宅壮一の一橋大学論に、如水会報で、わが恩師高島善哉先生が反論したということである。ぼくがおどろいたのは、反論の論点のひとつに、大宅の批判は愛情のない批判だというのがあったことで、批判されるほうが愛情を要求するのは、あますぎはしないかとおもったのである。 そとから一橋大学をみていると、教育・研究の条件は、日本の大学の平均からみて、ずばぬけていいのに、学問的生産力がずばぬけて高いとはおもわれない。インブリーディング(研究者の内部養成)が、あまさを生んでいるのではないだろうか。さいきんある学会でみた例は、まさにあまさそのものであった。「学閥」は、山のホテルでとろろをくうぐらいにしたほうがよさそうである。 4 終戦となって、ぼくはセレベスに派遣された。「君は商大だから英語ができるだろう、第二軍の通訳としていってぐれ」というのである。ジャワで終戦処理をやっていたら、独立戦争にまきこまれてころされたかもしれないので、とばされてかえってたすかったといえよう。ここでまずであったのが、海軍の小笠原少佐で、この人は委託学生だったのだろう。ぼくのことを、中学の後輩で大学の先輩といった。小笠原少佐の紹介で、海軍の補給関係に一年下の沖田大尉がいることがわかった。セレベスの陸軍部隊は、漂着部隊でものをもっていなかったので、海軍からの補給のルートができたのは、ありがたかった。ただし、念のためにいっておくと、ぼくが補給をうけたのは、何本かのシロップ(合成着色ジュースというべきか)で、それを航空用アルコールにまぜてのんでいた。戦争よりこのほうが、いのちがけだったのである。 漂着部隊だから、たいした兵器はないのだが、とにかく降伏したのだから、兵器を全部ひきわたさなければならない。その英語のリストをつくることも、通訳のしごとであった。いまでも苦笑とともにおもいだすのは、ヤンマー・ディーゼルである。ディーゼルは、ドイツ人の名前だからそのままでいいとして、ヤンマーとはなんだろう。ドイツ語として頭にうかんだのは、山田盛太郎の『日本資本主義分析』にでてきた(?)「惨苦の茅屋」で、これのドイツ語がヤンマー・へーレンであった。それでも、ディーゼル・エンジンが惨苦であってはこまるだろうから、どうもおかしい。結局ヤンマーとそのままかいてだしてしまったがあとできいたところでは農機具用に、ヤンマというトンボの名前をとってつけたのだそうである。 とにかくリストをつくって、兵器を保管している兵器部隊というのとひきわたし作業をやることになったとき、その部隊からあらわれたのが馬場富一郎であった。「なんだ君がいるなら、おれがやることはないじゃないか」といったが、あとのまつりだった。 じつは、もうひとつ、出あいがあったかもしれないのである。というのは、セレベスについたとたんに、二軍の参謀から、ニューギニア方面で連絡がとだえている部隊があって、そこへ飛行機で無線機をもっていくので、いっしょにいってくれないかといわれて、ジャワをでるときそういう命令をうけていないと、ことわったのだが、計理部の大学出身の連中のはなしでは、その部隊には、阿波三男がいるのではないかとのことだった。このはなしは、本人にたしかめていないので確実ではない。 復員してしばらくは、無職無収入で、妹のすねをかじっていた。だから、アダム・スミスの『グラスゴー大学講義』の翻訳の印税は、その負い目のつぐないにあてられたのだが、奇妙なことに、妹の冬のオーヴァーの純毛の生地と、北軽井沢の別荘とが、だいたい等価であったのをおぼえている。そういう生活のなかで、どうして旅費を捻出したのか、ぼくは関西旅行にでかけ、裏日本をまわって帰京した。そのとき、奈良県のどこかの郵便局でのことである。ぼくはなにか原稿をおくるので、書留か速達にする必要があってそこにいたのだろうとおもうが、ドアをあけてはいってきたのが宮下八朗であった。どちらもいそいでいたので、宮下の住所だけかいてもらってわかれたのが、それっきりになってしまった。三組の教室では、かれはぼくのうしろの席にいた。 戦時中と終戦直後の出あいは、まだ目を先輩後輩に転じると、いくらでもあるが、ここでは主として十二月クラブのメンバーに限定した。この回想に戦時的な暗さや重苦しさがないのは、ジャワという場所にもよるが、ぼく自身に、戦争協力の意志がまったくなかったからである。 |