4組  金井多喜男

 

 予科三年、学部三年の小平と国立の六年間の学園生活を終えるにあたっての大学卒業記念アルバムに僕は「暖簾に縋る可からず。暖簾は創るべし。」という警句を寄せておいた。この言葉は予科時代を体験した同期生諸君は誰でも御承知の筈だ。当時の上田貞次郎学長が修身という講座を持っておられてある時に説かれた言葉である。それはこんな内容だった。一橋の先輩は明治の開校以来、いざ勇飛せん五大洲の意気高らかに日本の産業界貿易業界の先駆者として、そして又リーダーとして活躍し一橋出身者の基盤を築きあげた。君達は後輩として徒らに先輩に頼ってばかり居る事なく、この暖簾を拡大発展させなければならない。先輩の創りあげた暖簾に君達後輩が縋ってばかり居るとその暖簾はその重みに耐えかねてすりへり、果てはすり切れて仕舞う。須らく君達はこの暖簾を一層強力なものとするは勿論のこと、独自の進路を開拓してより立派な新しい暖簾を創り上げねばならない。この教訓は当時の僕に大変強力な感動を与えてくれた。そして僕も社会人になった暁には実生活に是非生かしたいものだと思うようになった。

 予科の僕等のクラスは五十音順に席順が決っていた。然も三年間その席順は不変であった。僕の前の席は柿沼君であった。彼は大変頭が良くておまけにきちんと勉強する模範生であった。僕はのんびり者の怠け者であったので予習を怠ったり宿題を忘れたりする事が頻繁であった。教室でうしろから彼の背中をつつくとすぐ小声で教えてくれたり、或いは黙ってノートの個所を鉛筆で示してくれた。試験当日は要領よくカンニングさせて貰った。僕が予科時代何とか進級できたのは柿沼君と望月君のお蔭だったと思う。望月君は自宅通学だったが試験が近づいてくると朝早く一橋寮に僕を尋ねて呉れて、進んでノートを貸して呉れたり山を教えて呉れたりした。別に僕が頼んだわけでもないのに家庭教師役を買って出て呉れたのである。本当に親切な友人だった。柿沼君はずっと寮に居た。そんな関係で教室の外の生活も彼と行動を共にする事が多かった。ところが予科の終り頃から部屋とか図書館に閉じこもっていて僕を対手の閑つぶしをしてくれなくなった。その理由は高等文官試験をうけて中央官庁に就職を目指すのだという。当時既に満州事変から支那事変に移って戦局は拡大の一途を辿り、それにつれて日本経済もいつとはなしに統制色を強めていた。一橋の先輩の米谷教授とか常盤教授がよく小平の寮に見えて我々と雑談の機会を持たれたが、日本経済の統制経済移行に伴つて経済官庁の役人も経済に強くなくてはいけない。経済を専攻する商科大学出身者も新しく経済官庁に進路を拓くのが国の為世の為である事を熱心に強調された。このようた影響があってかその後わがクラスメートの中に柿沼君の志向に同調する者が何人か殖えた。僕は自分の能力からしてそんな希望を持っても全くの夢に終るであろうと思った。然し遊び対手が逐次減って行くと見込はなくとも何か目標を定めて勉強することも意義のある事だと考えて受験勉強をボッボッ開始した。いわばお附合い勉強とでも云うような性質のものだった。但し予科時代から趣味で始めた都山流尺八の同好会の練習は田中林蔵君、吉田益造君らと極めて熱心で毎年秋の一橋講堂で開催される定期演奏会を目途に張り切ったものだ。然し今から振り返って見るとこのことは受験勉強のよい息抜きになっていたと思う。

 秀才の柿沼君は標準に遥かに先んじて早くも学部二年の時に合格した。僕は予想通りというよりもむしろ予定通り不合格となった。お附き合い受験とは云え不合格となってみると流石に面子がある。身の程を知らずして受験なぞしてと蔭で笑われて居りはしまいかと気になりだした。それからというものは何とか合格しなければと真剣に志すようになった。

 還暦を過ぎて六十年の人生を振り返り、そして周囲を見渡すと人間の幸不幸には夫々本人の能力、努力の他に運というものが強くつき纏う。僕は三年の秋にその運に恵まれてはからずも合格出来た。それ丈ではない。第一志望の商工省にも入省出来た。いわずもがなではあるが商工省の幹部は東大卒業生が圧倒的多数で一橋の古い先輩は殆ど居なかった。然し何とか在勤期間上田先生の云われた暖簾を創るという程の立派な事は出来なかったが二十六年間を僕なりに満足に推移することが出来、一橋の暖簾に縋ること丈は避けられたと思っている。卒業アルバムに載せた僕のささやかな決意も、幸いにして嘘にならなかったことに内心やれやれと思っている。