4組  (岸  寿江)

 

 遙か遠い夢の中の出来事だったようにも思える悲しい思い出を呼び覚ますように、六月の雨の季節が又巡ってまいりました。もう三十年以上も昔になってしまった過去を、私はなるべく思い出すまい振り返るまいとして生きてまいりましたが、季節は容赦なく又思い出を運んでまいります。長い間胸にしまっていたものを、文字にする気になったのも、巡ってきた季節に誘われて、とでもいえるでしょうか。

 終戦の年私達は結婚し、翌年主人は、林兼水産工業に就職致しました。暫らく本社に勤務した後、地方へ転勤することになりました。それは勿論会社の方針に随ってのことでしたでしょうが、もう一つには時々私から姑への愚痴を聞かされていた主人は、この際少し別居した方が円満にゆくと考えた上での決意もあったと思われます。前橋工場を経て、静岡工場に転勤したのは二十四年三月でした。からっ風の上州から温暖な季候の静岡で暮せる喜びに胸をふくらませて、生れて始めての静岡駅へ降り立ちました。会社の方面へ行くバスは丁度発車直後で、あと一時間待たなければなりませんでした。主人は「ここまで来て居て一時間は待てない」と当時は珍らしいタクシーで会社へ着きました。私達の着任を知って工員さん達が、既に送ってあった家財を、倉庫から社宅へ運び込んでくれて、「岸さんの部屋は富士山がよく見える一番いい部屋ですよ」と案内してくれました。
 蜜柑山の向うに富士山が美しい姿を見せて、まるで絵の様な景色に、私はうっとり見とれておりました。と突然「火事だ」という叫び声に、ふと振り向くと、黒い煙がすーっと部屋に入って来たのです。「大変だ」と思った瞬間、二人の子供を両腕に抱えて部屋を飛び出しました。階段を降りる時にはもう火の粉が飛んできて、裸足のまま逃げ出しました。
 隣りの独身寮から出た火災は、強い西風に煽られて、またたく間に社宅に燃え移ってきたのです。会社に居た主人は、青い顔で走ってくると、「本社から預ってきた大事な書類がある」と云って燃え始めた家に飛び込みました。書類を下に放ると、自分も窓から飛び降りたのです。あの時静岡駅で一時間バスを待っていたら火災にも遭わず、家財も助かったことを思いますと、運命とはほんの些細た差で決まるものだということを、痛感させられました。その時私は、火災で出発した静岡での生活に何か不吉な運命の予感みたいなものが、ちらと心をかすめたのを覚えています。やがて新らしい社宅も出来て、生活にも慣れた翌年の六月十日、主人は東海道線の用宗の踏切りで三十二才の生涯を閉じました。私の二十五才の時です。当日は朝から梅雨のはしりの、かなり激しい雨が降っておりました。昼食に帰宅した時に「今日は二時から用宗で労基法の会議があるから夕食はいらないよ」と云って出て行ったのです。ところが二時頃雨の中を家に帰って来ました。「まだ行かなかったのですか、もう二時ですよ」と私が云いますと「うん、子供達はどうした」と家に上がり、昼寝をしている子供達の顔をのぞき込むようにして「よく寝ているね」と云いながらタオルでゆっくり手を拭くと、なぜか名残惜しそうに「じゃ行ってくるよ」と出掛けて行きました。あとで考えると、私達への別れに帰ってきたとしか思えませんでした。雨の中を出てゆく車を見送ったあと、私は何となく胸さわぎがして落着かず、縫い物をひろげたり、たたんだり、押し入れを開けたり閉めたりしておりました。ですから会社の方から誰かが慌ただしく此方へ走ってくる姿を見た時に「何かあったな」と直感的に、胸にぐさっと突き刺ささるようなものを感じました。
 用宗の踏切りは見通しもよく、今まで一度も事故がなかったそうですが、当日は雨で人通りもないため、踏切警手が遮断機を降ろすのを怠ったとの事でした。運転手と、書記の人は助かりました。病院で変り果てた主人と対面した時に、私はあまりの衝撃に涙さえ出ませんでした。只八ケ月のお腹がキリキリ痛んだのを覚えています。遺体が家に運ばれて安置された時に、こらえていた悲しみがどっと込み上げてまいりました。
 物資も不足の時代で、美味しいものもろくに食べさせてやれず、好きなタバコも思うように吸えずに死んでしまった主人への、申訳なさと、哀れさと、運命への怒りの入り混ったぶっつけようもない悲しみでした。最高学府まで出て、これからが人生という時に、戦争でもなくさなかった命を、交通事故なんかで失ってしまうなんて、主人も死んでも死にきれない思いだったのでしょう。きっと結んだ唇に、無念の相がありありと出ておりました。社葬を終え、山の中の火葬場で、棺の廻りに積まれた薪に、妻の私が火を付けました。燃え上る炎を見た時に、これで私の人生も総べて終ってしまったのだという絶望感と無常感がひしひしと押し寄せてきました。主人に死なれてはじめて私は主人が私や子供達にとってどんなに大きな存在であったかを思い知らされました。寛大さに甘え、我儘を云って困らせたり、なぜもっと大切にしてあげなかったのかと、いくら後悔してもすべてはあとの祭りでした。そしてこの償いは残された子供達を立派に育てるほかはないと心に誓いました。

 群馬の実家で出産後、赤ん坊を抱いて市川の主人の家へ戻る時の気持は、たとえようもなく重いものでした。夫の居ない家でのあけくれのなかで、唯一つの自由の時間は、月に一度墓参のため浅草のお寺へ行く事でした。
 泣くだけ泣いた帰りには、当時台東区にお住いの、お友達の間宮さんのお宅に度々寄らせて頂きました。御夫妻は、私の馬鹿らしいような愚痴でも、親身になってきいて下さり、温かく励まして下さいました。それがどんなにか慰めになったことでしょうか。

 そして日が経つにつれて、私は自分達の生きる道を真剣に考えるようになりました。それはいつまでも主人の家には居られないことが感じられたからです。子供を育てながらでも出来ることをあれこれ考えた末、素人でも出来そうな菓子屋をやろうと決めました。しかし商売をするには東京がよいということで、父に協力して貰って、品川の荏原町に小さな店を見つけました。翌年生後十ヶ月の赤ん坊を背に二人の子供の手を引いて、はじめての東京へ出てまいりました。所が開店して分ったことは、その店が問題の土地に建てられたものである上、近々真向いに大きな菓子屋が出来るために、早々と見切りをつけて売りに出した店だったということです。間もなく真向いに同業者が開店し、連日特売が始まりました。商売を甘く考えていた私は、店を持てた喜びも束の間、激しい商売の競争に直面してしまったのです。
 しかしもう後へ引くことはできません。来る日も来る日も歯をくいしばって、赤字を出し始めたらおしまいと、最低の生活に堪えながら、朝は早くから、夜はどこよりも遅く、一日も休まず店を開けて頑張り通しました。そうした中でも、ともかく親子四人が離れずに四畳半一間に身を寄せ合って暮せることだけでも幸せだと思いました。明るく元気に成長する子供達は、かけがえのない財産であり、生きる支えになってくれたからです。石の上にも三年といいますが、頑張り通してようやく店も危機を乗り越えて、安定してまいりました。

 子供達が次々と進学、卒業を繰り返して、やっと長男が銀行に就職するようになった時に、私はがむしゃらに働いてきた月日をしみじみと振り返ってみました。自分自身の事など考えるゆとりさえなく、ただ子供のために一途に生きてきて、気がついてみると中年も半ばになっておりました。しかしその間、人生の大事なものを身で学びとったような気が致します。苦難の連続でしたけれど、よく考えてみれば誰のせいでもなく、皆自分自身で選んできた道であり、避けて通ることはできないということや、人間捨て身になれば、どんな苦労も乗り越えられるものだということも体験できました。子供達を教育し終えて生活のめどさえついたら私は店をやめようと思いました。根っからの商売人でない私は、人生の後半で、本当の自分らしい生き方を取り戻したいと思ったからです。幸い好条件で店を貸すことが出来て、少し離れた処に小さな家を建てました。十数年間親子の生活を支えてくれた店に、感無量の想いを残して越してまいりました。そしてやっと、人生の長い長い嵐が通り過ぎたあとの安穏の日々が訪れてきたのです。子供達も大学を終えると、二男はエンジニヤとして、又三男は高校の教師として、社会のそれぞれの分野に羽ばたいてゆきました。三人の子供が次々と優しい伴侶を得て私のもとを離れた時、私はやっと肩の荷が下りたような気持で、無事に子供達を育て上げたことを主人に報告することが出来ました。現在子供達は、それぞれ二人づつの子供にも恵まれて、和楽の家庭を築いておりますが、平凡なその幸せに感謝して、嫁達には決して私の二の舞はさせたくないと、心底よりねがっております。これは、かつてすべて自己中心的にしか物事を考えられなかった私が、苦労の果てに得た心境です。そして出来ることなら主人に、六人の可愛い孫達と、こんなにも豊かになった世の中を、一目でも見せてやりたいと、それだけが残念に思われます。最後になりましたが、卒業後四十年を経た今日、たお変らない友情を寄せて下さる同期の方々に心より御礼を申し上げます。

 子等ゆえに踏み越えて来しいばら道
      振り返りみて今はなつかし