4組 (岸 寿江) |
遙か遠い夢の中の出来事だったようにも思える悲しい思い出を呼び覚ますように、六月の雨の季節が又巡ってまいりました。もう三十年以上も昔になってしまった過去を、私はなるべく思い出すまい振り返るまいとして生きてまいりましたが、季節は容赦なく又思い出を運んでまいります。長い間胸にしまっていたものを、文字にする気になったのも、巡ってきた季節に誘われて、とでもいえるでしょうか。 終戦の年私達は結婚し、翌年主人は、林兼水産工業に就職致しました。暫らく本社に勤務した後、地方へ転勤することになりました。それは勿論会社の方針に随ってのことでしたでしょうが、もう一つには時々私から姑への愚痴を聞かされていた主人は、この際少し別居した方が円満にゆくと考えた上での決意もあったと思われます。前橋工場を経て、静岡工場に転勤したのは二十四年三月でした。からっ風の上州から温暖な季候の静岡で暮せる喜びに胸をふくらませて、生れて始めての静岡駅へ降り立ちました。会社の方面へ行くバスは丁度発車直後で、あと一時間待たなければなりませんでした。主人は「ここまで来て居て一時間は待てない」と当時は珍らしいタクシーで会社へ着きました。私達の着任を知って工員さん達が、既に送ってあった家財を、倉庫から社宅へ運び込んでくれて、「岸さんの部屋は富士山がよく見える一番いい部屋ですよ」と案内してくれました。 群馬の実家で出産後、赤ん坊を抱いて市川の主人の家へ戻る時の気持は、たとえようもなく重いものでした。夫の居ない家でのあけくれのなかで、唯一つの自由の時間は、月に一度墓参のため浅草のお寺へ行く事でした。 そして日が経つにつれて、私は自分達の生きる道を真剣に考えるようになりました。それはいつまでも主人の家には居られないことが感じられたからです。子供を育てながらでも出来ることをあれこれ考えた末、素人でも出来そうな菓子屋をやろうと決めました。しかし商売をするには東京がよいということで、父に協力して貰って、品川の荏原町に小さな店を見つけました。翌年生後十ヶ月の赤ん坊を背に二人の子供の手を引いて、はじめての東京へ出てまいりました。所が開店して分ったことは、その店が問題の土地に建てられたものである上、近々真向いに大きな菓子屋が出来るために、早々と見切りをつけて売りに出した店だったということです。間もなく真向いに同業者が開店し、連日特売が始まりました。商売を甘く考えていた私は、店を持てた喜びも束の間、激しい商売の競争に直面してしまったのです。 子供達が次々と進学、卒業を繰り返して、やっと長男が銀行に就職するようになった時に、私はがむしゃらに働いてきた月日をしみじみと振り返ってみました。自分自身の事など考えるゆとりさえなく、ただ子供のために一途に生きてきて、気がついてみると中年も半ばになっておりました。しかしその間、人生の大事なものを身で学びとったような気が致します。苦難の連続でしたけれど、よく考えてみれば誰のせいでもなく、皆自分自身で選んできた道であり、避けて通ることはできないということや、人間捨て身になれば、どんな苦労も乗り越えられるものだということも体験できました。子供達を教育し終えて生活のめどさえついたら私は店をやめようと思いました。根っからの商売人でない私は、人生の後半で、本当の自分らしい生き方を取り戻したいと思ったからです。幸い好条件で店を貸すことが出来て、少し離れた処に小さな家を建てました。十数年間親子の生活を支えてくれた店に、感無量の想いを残して越してまいりました。そしてやっと、人生の長い長い嵐が通り過ぎたあとの安穏の日々が訪れてきたのです。子供達も大学を終えると、二男はエンジニヤとして、又三男は高校の教師として、社会のそれぞれの分野に羽ばたいてゆきました。三人の子供が次々と優しい伴侶を得て私のもとを離れた時、私はやっと肩の荷が下りたような気持で、無事に子供達を育て上げたことを主人に報告することが出来ました。現在子供達は、それぞれ二人づつの子供にも恵まれて、和楽の家庭を築いておりますが、平凡なその幸せに感謝して、嫁達には決して私の二の舞はさせたくないと、心底よりねがっております。これは、かつてすべて自己中心的にしか物事を考えられなかった私が、苦労の果てに得た心境です。そして出来ることなら主人に、六人の可愛い孫達と、こんなにも豊かになった世の中を、一目でも見せてやりたいと、それだけが残念に思われます。最後になりましたが、卒業後四十年を経た今日、たお変らない友情を寄せて下さる同期の方々に心より御礼を申し上げます。 子等ゆえに踏み越えて来しいばら道 |