4組  毛塚由太郎

 

 十年前の記念文集を紐解いて見た。驚いたことに当時の予想通り、自分の心の向うところは、相も変らず、山を歩き、スキーを楽しみ、碁に興ずる今日この頃である。ただ、あの頃とは熱の入れ方が大分違っていることに気づいた。

 先ず第一に言えることは、山歩き程度では満足出来なくなって、三千メートル級の本格的登山に挑戦するようになったことである。偶々通産省の大先輩に誘われて、五十歳の半ぱを過ぎた昭和五十年の夏に、槍ヶ岳へ登ったのがそのキッカケとなった。槍の穂先の岩場を攀じ登って、早朝山頂に立った時は、絶好の快晴に恵まれ、三百六十度の展望を楽しむことが出来た。その上、珍らしいことに、ブロッケン現象が現れ、笠ヶ岳との間の谷底に漂う雲に、円い後光の輪に囲まれた自分の姿が写ったのである。予科時代、山岳部の先輩に連れられて槍・穂高を縦走して以来始めて味う感激に、それ以後すっかり山の虜となってしまった。その翌年、職場が今いる研究所に変り、毎週土・日の連休を利用出来ることとなった。それに、スキーが目的で入れてもらった通産省の山の会のお蔭で、山行きの仲間には事欠かなかった。あとは、どの山に登るかである。山を愛し、山に斃れた作家深田久弥の選んだ「日本百名山」を当面の目標と決めた。

 昨年七月、道央の名山トムラウシの縦走を試みたが、内地と違い山小屋がないためテントが必要だった。熊除けの鈴を鳴らしながら登りに登って、頂上直下の、ハクサンイチゲの白い花が一面に咲き乱れているお花畑の真中に幕営した(内地では考えられないことだが花のない空地はない)。翌日は大雪山連峰を始め、十勝・雌阿寒などの名山の展望に恵まれ、快哉を叫ばずにはいられなかった。同じ昨年の夏の終りに、飛騨の山奥にある雲の平周辺の三千メートル近い峻峰、黒部五部・鷲羽・水晶の三山に登って、最後に三ノ俣蓮華岳に登頂した。この時も台風一過の稀に見る好天に廻り遭い、眼前に聳える槍・穂高連峰から立山・剣岳は言うに及ばず、既に登った山山、これから登りたい山山を一望のもとに眺め、去り難い感激に浸ったものである。

 さらに忘れ難いのは、尾瀬の燧岳へ会津側から登った一昨々年の秋のことである。この時は単独行の止むなきに至ったが、燧の中腹で振り返ると眼の前には、昨日登ったばかりの大きなどっしりした山容の駒ヶ岳を始め、遙に会津・上越の山山が見渡せた。そして眼下には、田代(湿地帯)一面に茂ったワタスゲが黄金色に輝き、今歩いて来た木道の何処にも人影は見当らない。見渡す限り、全く無人のこの大自然の中に、唯独り静かに浸れる喜びを噛みしめずにはいられなかった。

 ここ数年の山の思い出は尽きない。しかも無事下山して飲むビールの味もまた格別である。予科の記念祭で始めて飲んだあの時の苦いだけで旨いとも思わなかったあのビールとは大違いである。どうやら段々酒を楽しむための登山にウエイトが移って来そうな気もするのだが……。

 山登りと共に未だに止められないのがスキーである。中学へ入った翌年、父に連れられて湯桧曾温泉で滑ったのが最初であるから、昭和七年の冬だと思う。リフト・ロープウエイの発達と良き先達・朋友のお蔭で、未だにスキーをエンジョイ出来て本当に幸せだと思っている。このシーズンに滑った日だけを数えても二十日間になる。例年スキーの仕上げは、八甲田山の合宿である。ゴールデンウィークを利用して、山懐に抱かれた一軒宿、猿倉温泉に逗留する。勿論リフトなどなく、昔そのままの担いで登るスキーの毎日である。そして夜は、酒を汲み交わしつつ山談議に花を咲かせ、時には囲碁を楽しむ和やかな集いで、もう十数年来繰り返されている。

 昨年末には、幸運にも念願のスイスで本場のスキーを堪能することが出来た。しかも偶然、地元チェルマットのスキー教師と知り合い、そのグループともども、マッターホルンを眼前にした雄大な斜面で、日本のような狭いスキー場では味えないようなスピードスキーの醍醐味を満喫することが出来た。

 予科時代に覚えた囲碁も、目下のところ、実戦を打つ機会が余りないので、一向に実力はつかない。それでも、月一回プロに習っているためか、布石の感覚は多少なりとも身について来たと見え、先般、呉清源相手の連碁で、この大先生に褒められる手が打て、賞品として署名入りの著書を頂戴することに相成った。実力はなくとも碁の奥行きの深さが少しずつ分って来たお蔭で、対局の楽しみだけは倍加したと、以って自ら慰めている。

 音痴で歌の能力などないと思うけれども、予科の入学試験を終え、合格の喜びを伝えるべく母校三中の或る教師のお宅を尋ねた折、偶々かけてくれたクラシックレコードが縁となって、予科時代クラシック音楽に親しむようになったが、最近は、ゆっくり聴ける時間の少いのが悩みのタネである。それでも暇を造って色色の曲を聴いているが、モーツアルトの数少い短調、その中でもト短調の曲に心惹かれる昨今である。あの有名な悲槍美に溢れる第四十番のシンフォニー(冒頭の主題だけでも彼の名は後世に残ると言われている)は勿論、十七才で創ったもう一つの「小ト短調交響曲」と称される第二十五番も名曲だし、あの劇的な主題に始まるピアノ四重奏の一つもト短調である。また、僅か六曲しか創らなかった弦楽五重奏の中にもト短調がある。これはモーツアルト晩年の作で、父の死に直面している時に作曲されたと言われている。哀愁に満ちたこの曲を聴いていると、何時もしんみりした気分に浸り心静まる思いがする。しかも、終楽章で序奏の後、突如ト長調のロンドに転調する時、ホッと救われた気持ちになるものである。彼岸の世界を覗き見るような音楽とも言われるが、この世に別れを告げる最後の瞬間に、この曲を聴けたら、心安らかに永眠出来るのではないかと密かに思いつつ聴いている。

 昨年末、仕事の関係で一週間ばかり、サウジアラビア等の中東諸国を旅行した。その最後に、紅海岸の商都ジェッダに立寄った時、アラブのベドウィンにとって、遊牧生活からの切換えが如何に困難であるかをまざまざと見せつけられた。空港の建物を出て、眼の前に立ち並ぶ三十棟を越える高層住宅群を見た当初、完成間もないため、誰も入居していないものとばかり思っていた。ところが後で、竣工後既に一年以上経過しているにも拘らず入居者が皆無のまま放置されていることを知り、我々には想像も出来ないことだと驚き且つ呆れてしまった。その理由は、一戸当り日本流に言えば4DKの広さがあるにも拘らず低階層のベドウィンの収容を予定したことへの彼等住民の反発と、隣り近所附合いに不向きな高層マンションであることのようだ。

 それにつけても思い出されるのは、三年前の中東旅行で、クウエートの郊外に建設中だったニュータウンを見学した時のことである。広大な敷地にコンクリートブロックを積み上げて何十棟もの独立家屋を建築中であった。いずれも低所得者向けとはいえ、一戸当り六部屋を持つ二階建住宅であったが、その内部を見せてもらった時に思わぬ事実を知ったのである。それは、屋上をスリーピングテラスと称し、周囲を高い壁で囲い、夏の夜はそこで星空を眺めながら寝られるように配慮されていたことである。遊牧民の心を握むべくクウエート政府が如何に腐心しているかが良く分り未だに強く印象に残っている。その上、彼等は定住しても時々砂漠に戻ってテント生活を楽しむことを今でも続けているそうである。生れた時から慣れ楽しんだ星空と大地への感触を断ち切ることが、彼等ベドウィンにとって、我々の想像以上に耐え難いことであるに違いないと思った。

 「三つ子の魂百まで」と昔から言われている。幼時期に培われた性質や慣習は、年を取っても余り変らないものだとつくづく思う。我々世代は、昭和の動乱期に際会し、数々の辛酸を嘗め思いもよらぬ体験を積み重ねて来たわけである。それでも、自分自身はそれ程変らないものだと思われてならない。

 零歳時からの親子の接触が、幼時の人間形成に如何に大きな影響を及ぼすか、最近の研究でも実証されつつある。幸い(?)にも目下のところ、孫に煩わされることのない日常を送っている。その上、先日息子も巣立ち、益々気楽な昨今ではあるが、やがて孫を迎えるような事態になるやも知れない。その時は、三つ子云々の譬え通り、孫の将来のために心を新たにしなければならないと、余計なことまで考えてしまうのである。

 


卒業25周年記念アルバムより