4組  佐藤 芳信

 

 (行軍)

 早朝、警備地を出発して行軍を続け、途中数回の休憩があったが、夕刻になって天候急変、初秋の強い雨が降り出し、全くの暗夜となった。それからは全身グショ濡れ、編上靴の中迄水浸しのまま、一回の休憩もなく歩き続ける。眠い、無性に眠い。前を行く馬のしっぽを掴み、眼をこすったまま進む。
 時々、誰かがぬかるみに足を滑らせて顛倒する。「大丈夫か。」「大丈夫だ。」の声が間に低く響くが、その声も、烈しい雨の音に吸い込まれて消えてゆく。

 (夜明け)

 夜を徹しての雨中強行軍が終る頃、夜来の雨はまだ少し残ってはいるが、遠い空がかすかに明るむ。ふと、高梁繁る平坦な畑の続くそのはるかかなたに、巨大なる城郭が浮びあがるのをみる。
 「あれわ!」と、一瞬不吉に近い予感に襲われ、あとは互いに顔を見合せるのみ。
 この時気がついたことであるが、行軍開始の前日迄、約一ヶ月間悩まされ続けてきた、アメーバ赤痢によるひっきりなしのトイレ通いが、ピタリととまっていた。奇蹟としかいいようがないが、多分強行軍による、自然治癒であったのだろう。それとも、当時の心情に宿っていた、一種の信仰心が結果したものであったのであろうか。

 (作戦会議)

 夜来の雨はようやくやんだが、太陽は未だ照らないまま、黒雲の往来がしきりである。
 部隊指揮官は、地図を披いて、師団作戦の全貌を始めて説明する。
 「あの城をとれというのか。」
 「どうやって。」
 一瞬悲壮感がみなぎる。
 幾多の望楼で、角隅を守る城の全周は約四キロ。城中には部落があって、一般農民も居住する。この城を守る兵力は約三千と知らされる。

 (城攻め)

 早朝、師団はその総力をあげてこの城を完全包囲し、遂次包囲網を圧縮してゆく。
 昼頃、雨上りの上空に、友軍機の編隊が飛来し、城中を爆撃し始めると、地上の銃砲撃は沈黙する。一息入れて、爆撃効果を見守る。
 爆撃によって、城中の敵兵の殺傷、土造施設の破かい等の効果はあったものとみられたが、火災の発生はない。
 航空機が去ると、思い直したように、一層熾烈な銃砲撃が再開される。

 (友が逝く)

 夕刻、城壁から数百メートルの地点に達する。聯隊砲が、城壁角の望楼一ヶに対し、近距離集中射撃を始めた。
 「突破口の形成か。」
 しばらくその射撃効果を見守る。と、城壁上から金属音を発して飛来した狙撃弾が一発、砲の射撃指揮官に命中した。声もなく倒れた彼の腹部を、かけつけた衛生兵が開く。みると、ポツンとうす赤い斑点が一つのみ。出血は全くない。然し、「しっかりせよ。」との声にも彼は眼を開かない。
 「腹をやられると助からない」という記憶が脳中を走る。

 (夜間攻撃)

 日はすっかり暮れて、新月、中天にかかり、時に黒雲の往来はあるが、風もなく、射撃も概ねやみ、戦場は静かである。
 突撃の命令が下る。
 凡て軽装-手榴弾、銃、軍刀のみを持ち、その他一切の身辺の物品は後陣に託す。
 夜空に流れる黒雲が、月光を遮る瞬時を利用して匍匐、城壁に接近する。暗夜に浮び上る城壁上からは、せき払いがきこえてくるが、これが一種の親近感のようなものを感じるから不思議なものである。

 注
 戦斗が終った後、翌朝になってはっきりしたことであるが、城の全周には深さニメートルの庇砦が構築され、これに続いて深さ四メートル、巾六メートルの壕があり、この壕が城壁および三階建の望楼に接続していた。

 この城壁の一角にある望楼の下部は、既に夕刻の近距離砲撃で破壊されており、暗夜に大きな穴がポッカリあいているのがみえる。これが突破口だ。
 静けさの中の一瞬の決断。眩くように、「ゆくぞ。」の一言。数人一団となって、一気に庇砦を乗り越え壕に飛び込む。が、その音を聞きつけた城壁上からは、手榴弾の集中攻撃である。これに応ずるように熾烈な銃撃が一斉に始まる。それらの騒音は、打楽、管楽、弦楽の各楽器の最強音の合奏のように調和して、まさに名交響楽第三楽章のクライマックスの演奏を聞く錯覚に襲われる。
 一気に飛び込んだところは壕の底であり、城壁上からは死角に近く、いわばふところに飛び込んだようなものであるので、頭上に、戦場音楽の演奏を聞きつつ、破かいされた望楼を2階から3階へとよじ登り、暗黒の城内めがけて手榴弾を落す。
 ここで右手に被弾受傷するが、数人一団となっての突入は、敵城攻略の端緒を聞くこととなった。


 さて、以上は、青年の頃の戦場の記録である。その内容は、当時現地の新聞紙上に詳細に伝えられたが、誰かがいったように、「きれいな虹でさえ、十分もたてば、人はもう誰も見むきもしない。」ものである。今は唯ひそやかな記憶として残るのみとなった。
 この戦場で、私は多くの同期の友人を失ったが、それは他の隊に所属する者が殆んどであった。その主な原因は次のとおり簡単なものである。即ち

 他の隊の上級指揮官は、唯、「行け、行け。」と命じた。命令されれば行かなければならない。高さ八メートルの城壁をよじ登り、登り終ったところで忽ち発見され、狙撃される結果となった。私の隊の上級指揮官は、この間黙々として砲隊指揮官に城角の望楼破かいを命じていたのである。そして、その後闇夜を迎えてから始めて「行け」と命じた。
 以上のことは、初歩的、基本的な戦術に属することで、考えてみれば当然のことといわなければならない。然し、実際経験に乏しい当時の私にとっては、まことに貴重な体験となった。

 この戦場体験は、「人生において、何事につけ、成功の重要なキイポイントとなるものは何であろうか。」という問に答える形で、現在まで生き続けてきたように思われる。
 然し、すぐれた先人の言葉に、「人の一生は、総じて支離滅裂、失敗の連続としか映らないもので、その間にあって成功したことや、到達したことは、凡て失敗に圧倒されている。」というのがある。誰もが、「我が人生に悔なし。」というわけにはゆかないものなのであろうか。
 卒業四十年、風の如く過ぎ去ったが、これからの残りの人生の期間、なお高い希望を抱き、現在の中にこれを生かす手段を探し続けるにちがいはないものと考えている。

 終りに、最近感銘の深い万葉長歌を略記させて頂きます。

 「白雲の奄田の山の滝の上の、小鞍の嶺に咲きををる桜の花は、山高み、風しやまねば、春雨の継ぎてし雰れば、秀つ枝は散り過ぎにけり。下枝に残れる花は、須臾は散りな乱れそ:….」。