4組 執行 一平 |
学窓を出てから永年商社生活を送り、さして語るほどの事柄もなく、先ごろ定年を迎えました。いまは会社勤めから足を洗って、友人らと経済・技術関係の翻訳を業とするかたわら、週の半分は短大で貿易実務やビジネス・イングリッシュを教え、ヤングとの交流を楽しんでいます。先日、学生たちから外国の話をせがまれ、「東ドイツ」の話をしましたら、かなりの関心を集めたようですので、この機会に学友諸兄にもわが東ドイツの旅の一端をご披露したいと思います。 会杜に在職中は海外に出掛ける機会が割合と多く、前後かれこれ三十ヵ国ほど回りましたが、なかでも小生が一番気に入った国の一つは東ドイツでした。と言うと、けげんに思われる方が多いでしょうが、それも道理、つい数年前までは鉄の力ーテンの向う側にあって、テレビのスパイ映画などにしばしば登場してきたような「こわい」国だったからです。いまでは世界各国との国交も回復して、音楽やスポーツの分野では大活躍していますし、最近は日本からの旅行者の数もだんだんふえつつあるようですが、依然としてあまり知られざる国と言えましょう。 小生が初めて東ドイツを訪れたのは、一九六九年の三月、日本の商社としては初めてライプチヒの国際見本市に参加して、当時日本とはまだ国交のなかった同国との取引を開拓するためでした。最初は西ベルリンから、自動小銃を手にした米ソ兵の監視する「ベルリンの壁」を通って、おそるおそる東ベルリンに足を踏み入れたのですが、当時の西ベルリンの急速な復興と繁栄にくらべて、東ベルリンの復興の遅れと暗い町の表情に、東西の格差をはっきりと印象づけられたものでした。ホテルに泊まるのにも警察のチェックを受けねばならず、かねて聞き及んでいたように警察の尾行を付けられるのではないかと、内心無気味なものを感じました。 翌日、春先というのに粉雪の舞うミッテルドイチュラントの坦々たる平野を南に走り、二時間余りでライプチヒに着きましたが、ライプチヒの国際見本市は、さすが八百余年の歴史を誇る世界有数の見本市だけに、東京や大阪の国際見本市をはるかに上回る大規模なもので、参加国も東西八十余ヵ国に及び、とても鉄の力ーテンのなかの催しとは思えぬほどの盛況でした。それにくらべて、商談のほうは難渋をきわめました。何しろ相手は東ドイツの公団や国営企業で、誇り高く頑固な人種というわけですから、成ろう話も容易に成らず、大変な苦労を味わいました。それでも、その翌年には一億ドルにのぼるアンモニアプラントの輸出契約ができ、鉄鋼製品などの大量取引もできるようになりました。 前置きはこのぐらいにして、本題に入りましょう。ライプチヒは昔から、商業ばかりでなく、学術と音楽の町として有名です。古い石畳の町を歩くと、われわれが学生時代に心酔した大芸術家たちの息吹きを感じます。町の中心街マルクト広場の近くには、若きゲーテが「ファウスト」の構想を練ったという地下酒場「アウエルバッハ・ケラー」があります。いまはこの町一番の高級レストランになっていますが、昔の面影は十分残っていて、この穴蔵でゲーテを偲びつつ飲んだドイツビールの味は格別でした。ヨハン・セバスチャン・バッハが、その晩年の二十七年間オルガニストとしてつとめ、数々の名曲を生み出したという聖トーマス教会もそのすぐ近くにあ0ります。ここではたまたま「二短調トッカータとフーガ」のオルガン演奏を聴く機会に恵まれ、楽聖の昔に想いを馳せました。 世界最古の民間オーケストラで、メンデルスゾーンが今の形に育てあげ、フルトヴェングラーやワルターなども常任指揮者をつとめたというライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団も、この町を本拠としています。この楽団は近年たびたび来日していますので、日本でもその演奏に接しましたが、見本市の会期中、マルクト広場に程近いオベラハウスで聴いたその響きは、一味も二味も違うものでした。当日の曲目の一つに、この国随一の女流ピアニスト、アンネローゼ・シュミットの弾いたわが学生時代の愛好曲、シューマンの「イ短調ピアノ協奏曲」がありましたが、これまた昔のコルトーの名演を凌ぐ素晴らしい出来ばえで、たっぷりと本場の味を聞かせてくれました。ちなみに、シューマンもその青春時代をこの町で過ごしています。 ライプチヒは戦前ドイツの出版物の半数以上を発行していたといわれ、マルクト広場の横町には、文庫本で知られるレクラム杜や楽譜のぺーター杜など、多数の出版杜が軒を連ねています。さらに町の一角には、ライプニッツ、レッシング、二ーチェ、そしてゲーテなどを輩出したライプチヒ大学もあります。若き日の森鴎外もこの地に学びました。町なかの静かな住宅街には、シラーがべートーヴェンの「第九」の「歓喜の歌」を作詞したという古い質素な家もそのまま残されています。また、ライプチヒ近郊のハレには楽聖ヘンデルの生家があって、いまは古い楽器類の展示館になっています。同じく近郊のアイスレーベンにはマルティン・ルーターの生家があり、やや離れたヴィッテンベルクには彼が宗教改革を唱導したアジトがあって、いまは当時の資料を集めた記念館になっています。いずれも、昔ながらの古い町並みのなかに保存されていて、当時を想起させるに十分なものがありました。 その翌年の一九七〇年には、日本と東ドイツとの貿易量が大幅に伸び、これをさらに発展させるために、両国の間に民間べースの合同経済委員会が発足しました。日本側の会長には当時昭和電工会長の安西さん、その没後には新日鉄会長だった稲山さんが就任されました。この委員会の設立には小生も一役買っていましたので、それから数年間、毎年のように東ドイツを訪れることになりました。稲山ミッションにお供をして、国賓待遇の栄誉を受けたこともあります。昨年、この委員会の協力で、東ベルリンの一角に日本企業の設計施工による二十四階建ての国際貿易センタービルが完成しましたが、その柱の一、二本には小生の汗も滲んでいます。こうしたわけで、わが東ドイツの旅はさらに広がります。 ライプチヒの東南方、車で一時間余りのところに、かつては「北のフィレンツェ」「エルベのフローレンス」と謳われたバロック調の古都ドレスデンがあります。この町は第二次大戦の末期、連合国軍の猛爆によってその大半が破壊されました。戦後三十年を経た今日、町の再建は遅れていますが、それでもバロック建築の粋といわれる旧ザクセン侯の離宮ツヴィンガー宮殿や、この地に住んだウェーバーの歌劇「魔弾の射手」などが初演された国立歌劇場、そして聖歌隊で有名な聖十字架教会の大聖堂など、由緒ある歴史的な建物が次々と復元されていました。とりわけ深い感銘を受けたのは、この町には市民のための石工の学校があり、戦前どおりの町並みを何年かかってでも再現するために、多くの市民が石の刻み方ひとつから習っているということで、その伝統を尊ぶ心根と不屈の精神には全く敬服しました。 ツヴィンガー宮殿の一角にあるイタリア・ルネッサンス調のゼンパー美術館には、パリのルーヴルのコレクションにはやや及ばぬまでも、ラファエロ、ジョルジオーネ、ティティアン、ルーベンス、ヴェラスケス、ファン・ダイク、レンブラント、デューラーなど、世界的に有名な巨匠たちの粒選りの名画がずらりと揃っています。なかでも、ラファエロの「システィーナのマドンナ」やジョルジオーネの「眠れるヴィーナス」、小品ながらもレンブラントの「サスキア」などの傑作の前では、しぱし時を忘れて立ち尽しました。 ドレスデン北西郊の小さな城下町マイセンは、三百年の歴史を有する陶磁器の産地で、「青い剣」のトレードマークで知られる陶器人形や食器類は、世界で最も高価な製品の一つとして好事家の垂涎の的になっています。その初期には、日本の古伊万里、柿右衛門の染色技法が大きな影響を与えたというのも興味深いところです。東ドイツの関係者の特別の計らいで、一般には見学禁止という国営陶器工場の内部を見る機会を得ましたが、とりわけ絵付け師たちの繊細な筆致は、日本や中国のそれに劣らぬものがありました。記念にもとめた絵入りの灰皿は、わが家の書棚に雅趣を添えています。マイセンの町の象徴、エルベ河畔の丘陵上にそびえ立つ旧ザクセン侯の居城アルブレヒトブルクの景観は、数多いヨーロッパの城のなかでも、ひときわ美しく雄渾な眺めでした。 一旦ライプチヒに戻り、こんどはその西南方に二時間ほど車を走らせると、チューリンゲンの森の程近くに、ドイツ文芸の揺籃地ワイマールがあります。ワイマールといえばすぐに思い出すのは、ゲーテやシラーなどの文豪や、フィヒテ、二ーチェ、ショーペンハウエルなどの哲人、そしてバッハ、リスト、ワーグナーなどの楽聖でしょう。いまは、昔の王国の主都とは思えぬほど小さく静かな町で、その中心街にはゲーテが主宰し、シラーの歌劇「ウィルヘルム・テル」が初演されたという国民劇場があり、その前に建つ二人が連れだった立像はこの町の象徴になっています。ゲーテやシラーの住んだ家は、いまは記念館として昔の面影を伝えていますが、当時宰相だったゲーテの豪邸と、貧しい書生だったシラーの小さな家の対照が、とくに印象的でした。 ワイマールからチューリンゲンの森に沿って、真西に半時間ほど走ると、バッハの生誕地アイゼナッハに着きます。この町のバッハ記念館は彼が幼少の頃に過ごした家で、居間や台所も当時のままに復元されているといわれ、手書きの楽譜や三百種ほどの楽器のコレクションが展示されています。狭い裏庭にある古いつるべ井戸が、何故か最も強く印象に残りました。古い町並みをビヤ樽を積んだ荷馬車の行く姿も、実に素朴で絵画的な光景でした。この町を臨む丘陵の頂には、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」のモデルになったというワルトブルク城があります。一〇八○年に築かれたというこの城は、中世の遊吟詩人や歌手たちの集合の場といわれ、壮麗な「歌手の広間」は当時の歌合戦の有様を彷彿させるものがありました。城内には、宗教改革を唱えたルーターが幽閉され、新訳聖書のドイツ語訳を完成したという三坪ほどの狭い一室もありました。 さて、わが東ドイツの旅もそろそろ終りに近づきます。ライプチヒから踵を返して東ベルリンの西郊に回ると、かの「ポツダム宣言」で知られる小都市ポツダムが現われます。この町の象徴サンスーシー宮殿は、十八世紀にプロイセン王フリードリッヒニ世がパリのヴェルサイユ宮殿になぞらえて造らせたというロココ調の建物で、なかでも王が傾倒してフランスから招いたというヴォルテールのための居間や音楽堂は、ロココ美術の粋を集めた素晴らしいものでした。広大な庭園内には、このほかドイツ・バロック調のシャルロッテンホーフ宮殿など、いくつかの由緒ある建物も見られました。さらに、町の北端には「新庭園」と呼ばれる美しい公園があって、そのなかにポツダム条約が調印されたツェツィーリンホーフ宮殿があります。当時米英ソの首脳が使用したという部屋はそのままに保存されていて、一般には立入りを禁じられていますが、ここにスターリンが、あそこにトル−マンやチャーチルが坐ったという椅子に関係者の特別の計らいで坐らせてもらい、感慨も新たなものがありました。 また、ポツダムは、戦前は「西のハリウッド」と呼ばれた映画の町で、その一角にはわれわれが学生時代にむさぼり見た数々の名画の撮影所ウーファがあり、当時の名優たちが住んでいたという家々も残っています。いまはデファと名前を変えて、東ドイツの映画を製作していますが、このスタジオを見学したときは、昔懐かしの名画「会議は踊る」のなかで、リリアン・ハーヴェイの歌った"ダス・ギプツ・ヌール・アインマール"のメロディーが、思わず口をついて出てきました。ヤン・キープラの「今宵こそは」の名唱も、どこからとなく聞こえてくるような気がしました。 この国の首都東ベルリンについては、好ましからぬ町の印象を最初にお伝えしましたが、その後何回か訪れるたびごとに、目に見えて明るさが甦ってきたようです。出入国や宿泊の手続きも一段と楽になりましたし、市民の顔にも活気が見えてきました。西ベルリンとの境界に立つブランデンブルク凱旋門を背に、戦禍から逸早く立ち直ったウンター・デン・リンデンの美しい大通りを東に歩くと、その両側には戦後再建された官庁や外国公館などの新しいビルが整然と軒を連ね、続いて、ようやく修復なった国立歌劇場や国立博物館などの壮麗なバロック建築物が次々と立ち並びます。そして、東端の繁華街アレクサンダー広場付近には、戦後の東ベルリンを象徴する高さ三百六十五メートルの大テレビ塔「ベルリン・タワー」が天空を衝き、首都の貫禄をいやが上にも高めています。戦争で破壊された市街地にも、年ごとに新しい住宅アパートが再建され、国営百貨店に並ぶ商品もますます豊富になってきています。とはいえ、表通りから一歩それると、至るところに戦禍の跡が残されていて、首都復興の道いまだ遠しの観を否めませんでした。 かくして小生の訪れた東ドイツの町々は、十八世紀から二十世紀初頭に至るドイツ文化の中心地であり、われわれにとりわけ馴染みの深い偉大な人たちが生まれ育ち、来たり住み、数々の偉業を残した地でもあります。そのひとつひとつを、この眼で、この耳で、そしてこの足で確かめ得たのは、わが生涯の大きな喜びでした。このほか西ドイツでは、ゲーテ、べートーヴェン、ハイネ、トーマス・マンの生家や、「アルト・ハイデルベルク」のケーティーの酒場なども訪れましたし、音楽の都ウィーンでは、シューベルトやヨハンシュトラウスの生家、ウィーンの森のべートーヴェンの仮寓、そして映画「第三の男」の影を追って、ドナウ河畔の空中大車輪塔のゴンドラ上にも足をのばしました。さらに、ポーランドのワルシャワ、チェコのプラハなどとわがロマンの旅は続きますが、既に予定紙数もだいぶ超過しましたので、この辺で筆を収めたいと思います。 終りに、学生時代、小生に文芸や絵画鑑賞の手ほどきをしてくれた故南川福三郎君の霊位と、音楽に親しむ心を培ってくれた長井良二君に敬意を表したいと思います。そして、この機会に学友諸兄の一層のご健康とご活躍をお祈りし、特に今回の卒業四十周年記念事業にかかわる委員諸兄のお骨折りに対して心底よりの謝意を申し述べます。 |
卒業25周年記念アルバムより |