4組 篠崎 達夫 |
会員名簿の趣味の欄に、やきものとゴルフと書いておいたので全くおこがましい限りであるが、横から見たやきものの一端をこの辺で少しつけたしてみたいと思う。 中国では昔から陶により政を知る、といわれ、平和な時代にはやきものも栄えた。これは我が国においても同じく、桃山時代その後の徳川の代においても同様であろう。時代と盛衰を共にしたやきもののことは、即ち民族文化のあらわれであると云える。 現代の日本のやきものは生産額の多い点でも製陶技術の優れている点でも、陶磁器の先進国たる中国、韓国を凌駕している。すぐれた沢山の陶芸作家や作風の変化に富んでいること、技術のすぐれていること等は世界に冠たるものである。日本のやきものは絶えず大陸の影響を受けて発達して来たが、単なる模倣ではなく、絶えずこれを日本化し風土化している。日本的とは、やわらかく、おだやかで味わいのこまやかなことである。悪く云えば表現力が少なく作風がくだけすぎて骨がないとも云えよう。しかし日本のやきものは温暖な気候のように温雅であり、美しい山河のように優美である。中国のものはどちらかと云えば理知的意志的で、むしろ自然から離れたところにその美の世界が作りあげられているように思える。日本のものは中国のものに見られないあたたかさ、やわらかさがあるのは気候風土のためか、国民性かはともかくも、日本のやきものだけに見られる特徴といえよう。 日本のやきものの中から主なるものを拾ってみると先ず第一は京焼であろう。今の清水焼の系統は、慶長以後盛んになり仁清、乾山等の名人が出て、個性豊かな日本情緒の非常に溢れたものを焼いて日本陶磁史の中で忘れることの出来ないものを作り上げるに至った。特に現代陶芸界においては日本をリードする先生達が溢れている。日展側の総大将楠部氏、名家の清水六兵衛(六代目没、女婿九兵衛氏が後継)近藤、宇野、新開、三浦、活水(卯一)、松風……等の先生の他枚挙に暇なく、百花繚乱の盛況である。小生訪京の時はいつも清水卯一氏宅にて、やきもの談議に奥さんの茶を頂戴し、その柿紬、油滴のすばらしさに感嘆し、また河合誓徳氏宅では覇気充満した談論風発を楽しみ、五条坂を満足しながら下りて来る。 備前焼は素朴にして枯淡、酒脱で高尚、繊細な技巧と緻密な箆目、粗雑のようで雅味があり、日用品には勿論、高貴の調度品として気品高く茶道にも喜ばれている。備前徳利は酒が旨い、備前花瓶水が腐らぬともてはやされる。伊部の駅前から、やきもの店が並び、ゴマ、サンギリ、火ダスキ等の各種各様の備前焼が目を奪う。当地では藤原啓、山本陶秀氏等もさりながら、伊勢崎満、淳両氏の作品に惑かれる。前明治生命社長高木氏の絶賛やまない父陽山の作風をそのまま継承、工法意匠に秀れなセンスを示し、土の研究に基礎を置いたその作品には、世にてらわず、真摯な気持がそのまま出て、何時見ても眺めれば眺める程にほれぼれと深い愛着を感じさせる。去る二月の日経新聞に交遊抄にミノルタカメラの岡田氏が同氏を称賛していたことがうなづける。 萩焼は文緑の征韓の時毛利公が李兄弟を日本に連れ帰り萩焼を作らせた時より始まっている。弟の流れを汲む三輪家は松本萩として(古賀家と共に)萩市内にあるが、十一代休雪氏は愛想よく離れ家に迎えてくれ、作品の数々を説明批判して戴いたには頭が下った。 一方兄の流れを汲む深川萩は萩焼宗家として長門市の山合いの先祖代々の地で作陶しているが、門前には岸信介氏の筆による「陶祖新兵衛光政の跡」の大標柱が立ち、山を背に古格の風情は格別で、その中で生れる萩焼の柔肌の土味とその色調は茶映りもよく、茶腕として絶佳である。十四代は数年前に亡くなり今は十五代として若き新兵衛氏が奮斗中である。両氏の他に、坂、古賀氏等の大家が続々ひしめいている。茶陶として、世に一楽、二萩、三唐津の賞言がある。 瀬戸のやきものは日本六古窯の筆頭であり、セトモノとしてやきものの代名詞にさえなっている。志野の上粕の発見から古田織部の指導による織部焼の隆盛を迎え日本陶芸の華となった。志野の豪放覇気に富む作風は古田織部の武人的性格から来ているだろうか。昭和の初め、荒川豊蔵、加藤唐九郎氏等の努力により桃山時代のやきものそっくりが再生されたことは全く驚異に値する。荒川氏は久々利大萱の静かな山間にあって人間国宝として志野に専念し、息子武夫氏は虎渓山にあってその指導で焼き続けているが、松林の中での作品は素人にも人気がある。武夫氏の奥様にはよく茶を馳走になり、ご指導戴いたのが懐しい。一方加藤唐九郎氏は守山の丘陵の中で次男重高氏と共に窯を焼き、あの激しい気性で焼く作品は気に入らなければ叩き割るというだけにその出来映えは我々素人にもすばらしい。その作品はいくら眺めていても飽きず、深みと力強さが溢れている。同氏は今、日経新聞に履歴書を掲載中であるが、全くやきもののむずかしさがしみじみと読む人に伝わって来る。昨秋には、加藤唐九郎、題のやきものの本を、恵存として頂戴したには全く恐縮した。 以上のような有名陶芸家にばかりおこがましい筆が走ったが、それ許りがやきものではない。日本全国各地に昔からその地に伝わる固有なもの、民芸的やきものが非常に多い。それらは幼稚ではあるが土の香りを充分に含んだ正に愛すべきものである。これらは一介の職人の作であるが素朴で誠実味を持ち、奇をねらわず自然の姿の作風こそ正にその中にこそ本当のやきものの美がある、として近時柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司氏等によりこれら民芸の美の再発見が唱導され、以後各地に起った新民芸の運動は、正にリーダーのその美意識を働かせて職人が持っている伝統の技術を無心に活かすべく立ち上っているといえる。その点は観光ミヤゲ式の古民芸とは本質的に相異った様相を呈して来ている。 ゴルフについては二十年来つき合っているが一向に旨くならないで、半分は健康にもと思い歩き続けている。若い時は距離に許り無中になってチョコレートの取り合いに気をとられていたが、青い草原に舞い上るようなオーバードライブする時は無上の歓喜に浸ったものである。お蔭で今でも若い人に混ってドラコンの一つや二つは取ることもあり面目を保っている。最近は益々ゴルフがむずかしくなり、ゴルフの醍醐味はどこだろうかと思い返えすことがある。ただ数年前からカネはセヴェールを使っているが相模の六番の砲台グリーンや箱根十四番のバンカー超えの一七〇ヤード位を四番でオンした時等は何とも云えない内心の歓喜と充実感に充ち、満足して楽しく帰って来る。なお週末の多摩ではいつも長井君にスタートを頼み、車の世話になったりで内心感謝している。 |