4組  鈴木 義彦

 

 人生六拾を超えると来し方を懐かしく回想することが多くなる。人様が読んで面白いかどうか判らないが、取り止めのない思い出を筆の赴く儘に書いて見度い。

 (1) サインボール

 吾が家には古ぼけたサインボールが飾り棚に置かれている。これを見る度びに野球に明け暮れた少年時代が思い出されるのである。確か昭和九年だと思うが全米オールスターチームが二度目の来日をした際に入手したもので、既に半世紀近くの歳月を経ているので大分汚れて了い、サインも薄くなっているが、監督のコニー・マックを中心に、クリーン・アップ・トリオのゲーリツグ、ルース、フオックス等九人のサインが読める。このトリオのサインを貰ったのが鬼の首でも取った様に嬉しかったのを覚えている。

 当時日本は大学野球全盛でプロ野球は存在していなかったので、東京六大学のOBを中心として全日本チームが編成せられこのオールスターと対戦したのだが、実力に大人と子供程の差があり勝敗は全く問題にならず、全日本は一度も勝てなかった。日本のファンは全米チームの圧倒的強さ、特に投手の球の速さ、打球の速さ、足の速さ、肩の強さに目を見張らされたものである。

 小生の野球好きは春夏の甲子園の大会には朝から晩迄ラジオに噛りつき、神宮のリーグ戦や都市対抗が始まれば必らず観戦に出かけると云う有様であったが、後に早稲田の名投手若原氏を知るに及んで六大学リーグ戦は招待席で見れる様になり、頻度を一層増すこととなった。

 他方草野球ではあったが小学校、中学校を通じ、勉強もそこそこにプレイに精を出したものだ。予科に入ってからは年に一度か二度校内大会に出ると云った程度であったが、戦後銀行に復職してから暫らくは、メンバー不足もあって銀行リーグに引張り出され、土曜日曜の大半を野球に潰して了い結婚早々の妻から大分怨まれたものである。その後輸銀出向中迄小生の草野球は続き、昭和三十年出向終了と共に草野球も終りを告げた。

 この様に小生の草野球は単に好きだからプレイすると云う丈で、心身を徹底して鍛え、それを通して何かを得ようという様な欲のある係り合いではなかった。それでも起死回生のホームランや、満塁走者を一掃する三塁打等チームに貢献した数々の場面が記憶に残っており、野球が他の何にも増して若き日の小生を捉え、チームワークの大切さを識らずの内に教えてくれたことを否定する訳には行かない。今日でも程度の差こそあれ野球には大きな関心を持ち、特に純真なプレイを展開する春夏の高校野球に関しては毎年心弾ませてその開幕を待ちTVに噛りつくのが常である。
 このサインボールは吾が少年時代を照顧するよすがとも云うべきであろうか。

 (2) カラチ在勤

 戦争中運よく転属によりレイテ島行きを免がれ、名古屋での数次に亘る空襲被災にも紙一重の差で生き永らえて、第二の人生を始めることになった。正金銀行は改組せられ東京銀行となったが、通算三十有余年の小生の銀行生活をふり返って見ると、一九六七年から七十年にかけての丸三年間のカラチ在勤が最も生き甲斐のある充実した時代であったと思う。

 パキスタンの首都はカラチから北方イスラマバードヘ移転しており、日本大使館も同地に移ってカラチには総領事館が置かれていたが、経済活動の中心は依然カラチであり、日系企業は殆どこの地に集中していたし、大使も情報蒐集がてら折にふれカラチに来られるという情況であった。小生は日本人会長として総領事に協力し在留邦人の面倒を見る掌に当ったのであるが、その外PICIC(パキスタン産業信用投資会社)の日本代表の理事、日パ文化協会、パキスタン銀行協会、経済懇話会、日本人小学校運営委員会等々の役員を兼ねており銀行業務以外に相当の時間と精力を費した。

 パキスタンには日本の銀行は東銀のみであり無用の競争をすることはなく、引続き円借款を供与しており、対日感情も一般に良好であって、激動する政治面を除けば環境は悪いものではなかった。小生は地域に融け込み業務の拡大を図ると同時に、日パ経済貿易関係の増進に意を用い、夫々可成りの成果を挙げ得たものと自負している。親しい友人も沢山出来、未だに旧交を暖めている。

 カラチ在勤中に色々な思い出があるがその一つをご紹介し度い。
 愛知外相が印パを歴訪せられカラチに立寄られたのは一九七〇年夏のことであった。日本の国内ではとても大臣などと直かに話の出来る様な身分ではないのだが、この時は多忙な日程を割いて頂き日本人会との懇談の機会を与えられたのだった。小生は会長として屡々説明したあと最後に何気なく、日本人小学校のことに触れ、予算不足でルームクーラーが一つ足らない状況であることを付け加えた。

 ところが会議が終るとすぐ外相からホテルの自室に呼ばれて行って見ると、「寸志」と上書きした紙包みを手渡し"小学校にエアコンを買ってあげて下さい"と申された。突然且つ思ってもいなかったこと丈にその時の小生の驚きと感激は格別であり筆舌に尽くせない。この即座の寄附行為はエアコン一台のことであり、カラチの猛暑をご存知ない方々には或いは取るに足らぬことと思われるやも知れぬが、我々当事者は斉しく政治の要諦まさにこれなる哉と感じ入った次第で、愛知さんの床しいお人柄は今似て忘れ得ないのである。

 東銀を辞してメロン銀行に入ってから早や七年余、いわば第三の人生である。一男一女は夫々独立し孫三人、現在老妻と二人静かな毎日を健康に過ごしつつ、週末に孫の来るのを愉しく待つこの頃であるが、「温故知新」これからの生活もそれなりに実りあるものにして行き度いと希っている。