4組 田中 仁栄 |
昭和十五年七月十五日 これは大学二年の時太平洋クラブのメンバーとしてアメリカヘ旅行した時の日記の一節だが、旅の目的地を目の前にした時旅の感激は最高潮に達する。今まで方々へ旅をしたが何故旅をするのかと問われても、旅が好きだからという他はない。山がそこにあるから山へ登るのだというのに似ている。こんなに旅行好きになったのは私の父に負うところが大きいように思う。小さい時からよく方々へ連れて行ってもらったし、一人旅できるようになってからは費用を惜しまずどこへでも行かせてくれた。 初めて親元を離れて旅行したのは小学五年の時だった。毎日新聞社の主催で客船を一隻チャーターして京阪神地区の小学五、六年生を集めて瀬戸内海を一週間巡航した。小豆島、屋島、栗林公園、道後温泉そして別府等が今でも甦ってくる。生れて初めて旅の楽しさというものを自覚したように思うが、これが旅行に病みつきになった原因かも知れない。 次は中学四年の夏休みに北海道旅行をした。当時既に一橋受験を決めていたが、七月十日頃から夏休みに入ったので英気を養うと称して父の長兄が北大の教授をしていたのを頼って出掛けた。整然とした市街の札幌、洞爺湖、登別、支笏湖、阿寒湖等を廻ったが、当時の北海道は未開発で、内地とは違ったスケールの大きな自然の旅を満喫、いつの間にか八月も半ばを過ぎた。最後に樺太を見て帰ろうと思ったが、流石に父からウナ電が来て呼び戻された。その為樺太を見る機会はどうやら永遠に失われたようである。明日ありと思う心の仇桜、旅も行ける時に行っておかないと次の機会はあるとは限らない。 初めての海外旅行は昭和十二年予科二年の夏休みに行った天津、大連だった。父のすぐ上の兄が天津で貿易をやっていたが、その長男が東京の麻布中学に入学、初めての夏休みに帰省するのに一人では心許ないというので私が同行することになった。ろ溝橋の銃声一発、日支事変が始まった直後で、日本軍は北京攻略に進撃中という時だったので、船は夜になってから河を遡航し、天津の外港塘沽に着いたのは九時を過ぎていた。出迎えに来てくれていた伯父に促されて最終列車に飛び乗り、天津の伯父の家に漸く落ち着いた頃は夜も大分更けていた。挨拶もそこそこに寝床にもぐり込んで間もなく、辺りに激しい銃声が響いて目が覚めた。日本の警察に当る保安隊が寝返って手薄になった日本租界を包囲攻撃しているという。夜が明けて漸く日本軍の援軍が来て鎮圧された。午后になって始めて街に出てみたが、道路には兵士の死体がごろごろしていた。結局約一週間天津に閉じ込められたが、何時になったら治まるのか見当がつかないので、船で大連に渡り数日見物をして帰国した。 予科から大学に進学して、早速待望の太平洋クラブに入り、大学三年間の夏休みはすべて海外で過した。太平洋クラブの旅行は何の制約もなく自分の好きなように旅行ができ、何所へ行っても一橋の先輩が多勢おられ、よく面倒をみて頂けたので実に有益且つ楽しい旅行ができた。 昭和十四年大学一年の時は先ずフィリッピンに行った。木材を運ぶ貨物船に便乗、途中基隆に寄港し、石炭を積込む間に半日台北に遊んだが、十二日でマニラに着いた。タガログ語やスペイン訛り英語等外国語ばかりが耳に入ってくるのを聞いて、あゝ外国にやって来たということを実感して武者ぶるいをした。美しいマニラ湾の夕陽、中世の雰囲気を漂わせるイントラムロス、対照的な新市街や大学、郊外のロスバニオス、避暑地バギオ等を見物して約三週間をマニラで過した後、船で更に南下、セプー、サンボアンガ等に寄港して五日の航海で、ミンダナオ島ダバオに着く。日本人が開拓したサイザル、パインナップルの栽培、木材の伐採等を見て、海外における日本人の活躍振りに大いに意を強くしたものである。約一週間滞在して郵船の豪州航路熱田丸でマニラ経由香港に向う。 香港は流石に大都会だが、雑踏と喧騒の街という印象を受けた。それでも山の中腹の住宅街、リパルスベイ等は欧洲の雰囲気を漂わせていた。この少し前に広東が陥落、船が行くというので早速出掛け一泊した。広東は如何にも中国らしい都会で、蛋民という水上生活者が珍らしかった。広東は戒厳令下ではあったが、学生が来たというので、軍人も含め如水会の先輩が歓迎会をして頂き感激した。香港滞在中独ソ不可侵条約が締結され、ドイツ軍がポーランド進撃というニュースが入り、香港ドルがあっという間に急落、外国為替の変動の厳しさというものを体験した。香港には約十日滞在の後日本郵船の豪華船竜田丸で帰国の途に就く。途中上海に寄港、一泊。当時の上海は随所に弾痕も生々しい戦場で、各国租界を抱えた複雑な国際都市の息吹きが感ぜられた。 翌十五年、大学二年の時は一年上の勝兄と二人でアメリカに行く。往復川崎汽船の一万屯級の新鋭貨物船に便乗させてもらう。貨物船といっても立派な船室があって一等船客待遇、しかも船賃は往復で百円だったのも今昔の感に堪えない。七月二日横浜を出帆、約二週間の平穏な楽しい航海の後サンフランシスコに着いた時の日記が冒頭の一節である。米国には約三ヶ月滞在、グレイハウンドのバスでシャトル、シカゴ、ナイアガラ、ニューヨーク、此所で約一ヶ月半滞在した後更にワシントン、ニューオーリンズ、ダラス、グランドキャニオン、ロスアンゼルスと廻り米国を略々一周した。 日米開戦の前年で日米間には緊迫した空気が流れていたが、その為に不愉快な思いをさせられたということは殆どなく、アメリカ人の人の好さと大きさというものを痛感した。又その広大な国土、桁違いの富、自動車を基調とした日常生活等当時の日本との格差を嫌という程見せつけられた。 シャトルからシカゴまでバスで三日三晩走り続けたが、途中左右とも目の届く限りの広野を走る鉄道の踏切を横断する時、バスは必ず一旦停車して左右を確認した上でスタートするのを見て感心させられた。シカゴに着いた時流石に疲れて映画館に入って一休みしたが、上映していたのは『風と共に去りぬ』。日本で原作を読んでいたし、そのカラーの素晴しさに居睡りするどころか約四時間余り目を皿のようにして見ていた。ナイアガラの滝を見てニューヨークに着いたのは朝、ハドソン河越しに朝霧の中にうかぶ超高層ビルのスカイラインを見た時は遂にやってきたという感懐を新たにして嬉しかった。 ニューヨークには約一ヶ月半滞在した。丁度ニューヨーク万国博を開催中で四、五回通って精力的に見て廻ったが全パビリオンを見ることができず、そのスケールの大きさに感心した。又大統領選挙の年に当っていて、ルーズベルト現大統領に対し、財界をバックにウエンデル・ウイルキーが挑戦し、日本では見られない華々しい戦挙戦が展開されているのを見る機会を得たのも幸いだった。 この年太平洋クラブとしては米国班を三班、計七名派遣したが、我々の班だけは東海岸まで行くことにし、他の二班は西海岸だけを見学して帰る筈だった。しかし米国に来てニューヨークを見ずして米国を語る勿れという訳で、西海岸組の二班も揃ってニューヨークヘやって来た。しかもバスで丁度ニューヨークヘ着いた時、我々も偶々近郊に出掛けるべくバスターミナルに行き連中とばったり顔を合せ、その奇遇に驚いたが、太平洋クラブ米国班三班七名全員が数日を一緒にニューヨークで過したのも太平洋クラブらしい楽しい思い出となった。 同行の勝兄は当初の予定通り帰国したが、私は帰国の船を一船延ばしてニューヨークに残った。従ってニューヨークからの帰途は一人旅となり、ワシントンから南下してリッチモンド、アトランタを経由ニューオーリンズに行く。こ街は昔はスペイン領だったので建物や街並にはスペイン風が残り、今までの都市とは全く違った趣があった。又街角で立食いをした大きな生のオイスターの美味しかったこと、今だに忘れられない。とてつもなく大きいグランドキャニオンを見た時はその素晴らしさに息を呑んだ。ロスアンゼルスに着いて日本人街のホテルに泊ったが夜になるとどこからともなく三味線の音が聞えてきて、日本に帰つたような錯覚を起した。十月十日サンディエゴを出帆、帰りは時化で船は大分揺れたが十月二十七日無事横浜に着き、思い出多い旅を終つた。 大学三年の昭和十六年は、当時の仏印のサイゴンを振出しにカンボジアのアンコールワットからバンコックに出て、更にマレー半島を南下シンガポールに行く計画だったが、戦局が緊迫、関特演といわれた大動員があって学生の海外旅行は禁止された。そこで止むを得ず興亜学生勤労報国隊に参加して中支へ行った。これは全国の大学生、高校生を軍の管轄下に大陸へ派遣していたもので、この年一橋は海軍の指導の下中支へ行くことになっていた。学部、専門部、予科から計十名が選ばれ、佐世保鎮守府の海兵隊に入り、約一週間訓練を受けた後帆船日本丸で上海に渡った。上海では陸戦隊の兵舎で起居、陸戦隊勤務の見習いをすると共に、戦跡の草むしり等勤労奉仕をやらされたが、上海から鎮江、南京を見物することができ、これで曲りなりにも大学生活三年間の夏休みを海外で過すという念願を果すことができた。 旅行ではないが、軍隊では約二年余を満洲の林口、平陽で過した。師団司令部勤務の自動車将校だったので、整備教育で二ヶ月新京に派遣され、その帰途ハルピンで一寸羽をのばしたり、自動車部品の調達によく牡丹江や佳木斯に出張したりして結構軍隊生活でも旅の楽しみを味わうことができた。 戦後初めて海外へ出たのは昭和三十二年。当時はまだ英領ボルネオといっていた今のマレーシアのサラワクとインドネシアの国境地帯のシランティックに石炭調査に出掛けた。両岸の土手では鰐が昼寝をしている河をボートで遡り、後は土人に荷物を担がせて湿地帯のジャングルを約半日歩いて到達した。この辺りの森にはオランウータンが棲んでいるといわれるが、その巣は見かけたが、実物にはお目にかかれなかった。この付近はダイヤク族という首狩人種の居住地で、勿論ホテルはなく、この土人の部落のロングハウスに泊めてもらった。これは湿気を避けるため約四メートルの高さの高床式で、二、三十メートルはある長屋風の小屋。その半分が小部屋に仕切られていて夫々に一家族づつが住んでおり、残りの半分は長い通しの大広間になっていて、我々ゲストはそこに泊めてもらう。食事が済むし多勢大広間に出てきて物珍らしそうに我々一行を眺めている。この旅行は一寸探険隊にでもなったような珍らしい旅だった。 その後は台湾の石炭開発に投資した関係でよく台北へは出掛けたが、昭和三十五年から一年余りは台北に駐在した。当時はまだ今日のような観光ブームになる前のことで、対日感情も非常によかったので、楽しい海外生活だった。折角の機会なので家庭教師について週二回北京語のレッスンをとったが、今ではすっかり忘れてしまった。しかし商社の支店長はお客の接待が仕事の一つ、殆ど毎晩のように宴会があり、酒を飲みながら覚えた台湾語は今でも台北に行けば片言ながら口をついて出てくる。語学というものは習うよりは必要に迫られて実生活で覚える方が身につくものだということを実感した。 外国に行くと言葉が不自由だし、食物は口に合わず、風俗習慣の相違もあって嫌だという人がいる。私は何所へ行っても郷に入っては郷に従う主義で、その土地の食物を味わい、その風俗習慣を楽しむことにしている。そうすれば旅の楽しみは倍加するものである。 その後住友不動産に転じ昭和四十六年社長夫妻に随行してカナダのモントリオール、米国ニューヨーク、シカゴ、マイアミ、アトランク、ダラス、ロスアンゼルス、ホノルルを約一ヶ月旅行する機会を得た。約三十年振りの訪米である。アメリカがどんなに変っているかと期待して出掛けたのだが、一番感じたのはアメリカの変化よりも日本も変ったものだということであった。 超高層ビル、自動車の氾濫、高速道路、立体交叉、中古車マーケット等々目を見張るばかりだったのに、今日の日本では当り前のことになっている。三十年前は日米間にすべて大きな格差があったのが、今日では規模の大小はあっても、格差というものは殆ど無くなっていたというのが最も大きな変化だった。三十年前ニューヨークのタイムズスケアにあるニューヨークタイムズ社のビルの屋上には世界一といわれたチューインガムのリグレーの大イルミネーションが輝いていたが、今度行ってそこにソニーの看板が上っているのを見て、非常に象徴的に思った。しかし社長の意向で高級住宅を沢山見て歩いたが、住宅の規模、豪華さはやはり桁違いで、富の蓄積の差はまだ大分大きいことを感じさせられた。 住友不動産を定年退職して行ったエアロマスターが一年も経たぬ中に倒産、その会社更生法の適用に努力して漸く認められて同社を辞めた昭和五十年、如水会報に欧洲浪漫の旅の募集が載っているのを見て、早速応募した。コペンハーゲン、デュッセルドルフ、ライン河、ロマンス街道、白鳥の城ノイシュバンシュタイン、ベルヒテスガルテン、ザルツグルグ、ウィーン、パリーと二週間の旅だったが、大正十三年の先輩から一番若い私まで二十五名の気心の知れた如水会員ばかりのパーティで実に楽しい旅だった。仕事の絆から解放されて初めてのレジャー旅行である。 昭和五十二年、卒業三十五周年を記念して十二月クラブの海外旅行を企画、佐藤幸男、張漢卿の両君のいるカナダに出掛けた。バンクーバー、カナディアンロッキー、トロント、ナイァガラの滝、サンフランシスコと十一日の旅だった。この旅行はいわば家族旅行ともいうべきもので佐藤、張両君の好意で至れり尽せりの歓待を受け、米大陸の大自然の風物を満喫、実に楽しい旅行となった。これがきっかけで、身体が言うことを聞く間にできるだけこの楽しい旅行を続けようというので、隔年毎に実施することになり、昭和五十四年、第二回として工ーゲ海の旅に出掛けた。三泊四日の工ーゲ海クルーズ、アテネ、ローマ、パリー。第一回、第二回とも好天気に恵まれ、一人の故障者も事故もなく、楽しい旅に終始したのは流石に十二月クラブの旅である。 昭和五十三年、満六十の還暦を機にサラリーマン生活に訣別、マイペースの自由業を志向した。実は学生時代の夢として、定年まで一生懸命働いて金を貯め、定年後は自由に海外旅行をして過したいと思っていた。しかし実際に定年を迎えた時はそんな夢はどこえやら、僅かな厚生年金だけが唯一の頼りという状態である。そこでキャリアを活かしてアルバイトで金を稼ぎ、できるだけ旅行することにした。偶々現在の和光物産の社長から台湾南沙諸島の燐鉱石の調査を頼まれて台湾へ行ったのが縁で、その後同社が手掛けた米国力ーペットの輸入業務の下請することになり、その関係で時々アメリカ、主としてジョージア州アトランタとハワイのホノルルヘ出掛けるようになった。会社勤めをしている時には何とか海外に出られるようにと何度か会社も変ったが、寧ろ辞めてからの方がその機会が多くなったのは皮肉である。 昭和五十四年十一月アトランタヘ出張した序に一足延ばしてブラジルを訪れた。初めて南半球へ足を踏み入れた。実は父の兄一家が五十年前にブラジルに移民、伯父は戦後間もなく亡くなったが、伯母はまだ元気であり、多勢の従兄弟姉妹もいるので前々から一度是非行ってみたいと思っていたので、思いきって出掛けた。日本とは反対に夏に向うところだった。農民として移民したので大変苦労したようだが、戦後は次第に都会に移り今では殆どサンパウロで裕福に生活をしているのを見て安心した。僅か五日間の滞在だったがサンパウロ、リオデジャネイロ、サントス等見物させてもらった。 よく旅の三要素として金と暇と健康といわれる。しかし私の経験からすると、好奇心と意欲と運があれば金と暇は何とかついてくると思っている。幸い今のところまだ健康には自信があるので、これからも凡る機会を捉えて内外を問わず旅行に出掛けて行く積りでいる。 |
卒業25周年記念アルバムより |