惚けた老人の仲間入りをする年令になって会社を辞めた。肩書がなくたってほっとする間もなく、今度は生活の糧を失う危険にさらされてしまった。その上に永年住みなれたあばら屋を追われることになった。
もうあと何年もある寿命でもないのに.ポックリと仏の傍へ行き度いと、迷信みたいなポックリさんのおまじないをしても、あの世はあの世で色々都合があるらしく、ハイ、さようで、とは中々迎えては呉れそうにもない。
そんなことを考え乍ら、広くもない庭に出て草むしりをしていると、あとから色々なものが芽を出している。露地植にしたものも、鉢のものも、早春には次々と頭を出してくる。忘れていた草花も芽を出す。春はたのしい。エンレイ草も毎年葉は出すが、一度も咲かなかったのに、今年は株も増えたと思っていたら三本も花をつけた。白い中にうす桃色がほんのり浮いた様な美しさに惹かれて、写真を撮る為に三年間も山を歩き廻ったこともあった。やれやれ……今大文字草、人字草が大分のびて来た。
そんな事を考えている中にまた夏がやって来るだろう。二百鉢以上もあつめてあったのだが、残してゆくのが可哀そうで、ぼつぼつ大邸宅の人達に貰って戴いたり、予定をとりつけたりして、大分すっきりして来た。それでも水やりは一仕事である。馬穴でやっていては、つまらぬ事で痛めた腰が又痛がるので、水道から直かにホースをつないで水をやる。夏だけでなく、冬でもやらなければならないので、寒がりの私には大変な苦労である。
それでも生意気に伝教大師の照干一隅とは先づ草木から、などと勝手なことを考え乍ら精を出すこの頃である。
エゴの花今年も咲かず落葉する
札所さて打ち終りたり秋の空
只管打坐(しかんだざ)雪降りしきる永平寺
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