4組  二見 正之

 

 今年の十月には結婚二十五年の銀婚式を迎える。わが国では明治二十七年三月九日に、明治天皇の銀婚式が最初で、それ以来一般化したという。十二月クラブの諸兄にはお孫さんが大勢居るというのに、私の長男は今年の三月学校を出て就職したばかりである。長女もまだ大学の三年であと二年はかかる。
 十二月クラブの諸兄より十年遅れているが、それでもやっと人並に銀婚式を迎えるまで生きて来れたのもありがたいことだと思う。
 会社の方も、四十年勤めた東京海上をやめて、七月一日より財団法人損害保険事業研究所に勤めることになった。この研究所は、昭和八年に東京海上の創立五十周年の記念として、東京海上が百万円を寄付して創設したものである。当時の取締役会長は各務鎌吉で、各務は明治二一年(一八八八年)東京高商を首席で卒業した俊才で、二三年に同じく東京高商を卒業した平生欽三郎と共に東京海上にあって同社の発展に尽したわれわれの大先輩である。このような研究所に勤務するのもなにかの因縁である。

 結婚したのは昭和三十一年で、それまでは病気の連続である。生れ落ちた時になかなか産声を上げなかったというから、弱い子供だったのだろう。小さい時から呼吸器が弱く、大学の時にひどい喘息発作を起し、モルヒネの注射で止めた経験がある。会社へ入って間もなく盲腸にかかり、慶応病院で手術を受けた。戦後二十三年に結核が発病、当時気胸療法が唯一の治療法であった。胸膜腔に空気を入れて肺をおしつぶす療法だが、気胸を行うと喘息も起り苦しみが続いた。二十七、八年になっても気胸療法だけでは好転しないことが分ったので、思い切って二十九年に、助骨を六本切除して空洞をおしつぶす胸郭成形術を受けた。手術も喘息の併発を避けるため夏を選んだ。しかも二回に分けて医科歯科大の川島外科で行った。
 結婚した時は三十七才、中年であった。当時は体力も充実していたせいか、三十二年に長男、三十五年に長女.と次々に子供をさずかった。

 三十六年に十二月クラプが結成されて以来、クラス幹事、副幹事長、幹事長と世話役をつとめたが、これも身体の状態が良く、仕事も責任をもつようになった時期であったのだろう。十二月クラブの会合に出れることは、身体の調子が良い証拠であり、事実幹事長の時など職責上も皆出席であったと思う。このことからも「病は気から」ということも意味のあることであり、気合の充実と体調の良好とは同時性のあるものであることも分った。

 しかし、生来そうなのか、病気がさせる用心深さなのか分らないが、万事控え目に過して来たように思える。とことんまで力を出し切らず、少し余力を残して引揚げるという生活態度である。ギブ・アンド・テイクというと、EVENにやりとりする意味のようだが、どちらかにおつりが来るようでは成立たないのではないか。とことんまで相手のために力をつくし合ってこそギブ・アソド・テイクだという気がする。大きく言えば、愛は、おのおのが自分のことなど考えずに、もっぱら相手のことを考え、相手につくすことだろうと思う。利己的に処したと思えてならない自分を振返って自分史の一端を記した。

 



卒業25周年記念アルバムより