4組  間宮健一郎

 

 世に老きという、女性にとっては皺が一筋増えることも髪の毛に白霜が一本目立つことも疎ましいことであろう。勿論、男性とてもそのラチ外ではない。老眼鏡のご厄介になることにょって元来の能力が衰えこそすれプラスにはならない。だからと言ってその頃には充実した識見、透徹した洞察力等々、肉眼で見る以上の観る眼が備って来る筈である。

 女性とても若いときの華麗な美しさに代る円熟した心身の優雅さが備わるのもこの頃であろう。こうしてみると老きとは一体何であろうか。勿論主観的な分け方にもよるし、個人差のバラッキもあるのではなかろうか。

 いつの間にか自分もそういう年頃に行きついてつらつら思うことである。私は一人っ子で育ち、健康でもあったし、幼少時代恵まれていたと人に言われて生きて来た。だから我儘なのだと言われても来た。自分で考えてみて、だからアクが強いのかなと思う。身辺の者にも、職場の人達にも自己流の発想による理想の追求又はそのための行動と協力を現役時代には求めたのであろう。いま自由で、それなりに責任の少い立場になってみると青少年時代の情緒や思想がいつの間にか固定化し、自分でも随分究屈な心で生きて来たのではないかと思う。

 私はこういう心の変化の中で欝屈したものが、滓(おり)のように心にたまり、凝固しつづける時、益々アクの強い人間になって行くように思う。

 若い時に個性だと言っていたものがこの世の塵芥と汚濁をくぐり、凝固して、人、夫々のアクとなっているような気がする。勿論、個人差がある、夫々の特質がある。良い悪いの問題ではない。而し固型化である。防壁のように外に囲いし、内部をかいまみる余地もない。時に銃眼を持つ城壁のように反発的でさえあり得る。

 これでは嫁は姑に憶し、若者は老輩と敬遠するであろう。而し自分を反省してみるとそんなものである。不器用のせいもあって適当に、恰好よく泳ぐすべを知らない。

 まさに老執ではなかろうか。私はむしろ外見の容姿、いや物理的、乃至生理的とでもいうべきか。このようなものよりもいつの間にか忍び寄っていて、今後益々迫り来るであろう心の氷壁と対峙して行かねばならないであろう。

 私は育った環境のせいか、独りでいることに馴れているようである。むしろ四六時中単独の許されない世界。例えば旧軍隊生活の下積み時代など一番苦手であった。眠っている時以外、必ず複数の生活ということであったから。

 白鳥は悲しからずや海の碧空の青にも染まず漂う

 これは私の好きな短歌の一つである。
 孤独、憂愁、自由を感じるのは私だけであろうか。
 孤独の在り方もいろいろあろう。異国の山河に立ってそう感じた時もある。会議の席で自分の主張が姑息な思惑で、孤立させられたとき。
 劇場やホールの眩いばかりのシャソデリヤの下で空しい心を抱いたとき。時にまた通勤電車の混雑した座席にいて、孤独の気安さを楽しむことはなかったであろうか。
 そして人は老いて孤独になるものだという。
 身寄りから離れて孤独になることをいうのであろう。

 私の場合、長女は嫁いで関西に行き、かれこれ十年、二児を持ってまずまずという処。長男は入社して五年目でまだ独身。昼は家内と二人で、家内が出掛けるとよく独りになる。だが現状の独りは孤独ではない。むしろ私は混雑した電車の中で、見知らぬ人に囲まれたとき、孤独と同時に不思議な安らぎを覚える。

 何故であろうか。自分でもよく分らない。ハソガーに息子のコートがかかっている。妻の移香がどこかに残っているようでもある。時として孫からの葉書が突然、舞い込むこともあるからであろうか。
 白鳥の歌の孤独は私の幼い心が日頃の糧として来たもので、私は孤独を知ってはじめて人を愛おしみ、その想いが、東京生れで故郷を持たない私を虚しい望郷の心に駆立て、未知の世界への憧憬に向わせたのではなかったか。
 「故郷の春」はいずれにしてもその原点であったのであろう。

 最近私は週に二度ほど新宿のSビルにある教室に行く。そこには男女学生、OL、中年の奥様、公務員、教師、退職後の紳士そんな人達が五十人ほど集る。言わば同病の人士である。
 ショートケーキまがいの短篇小説を書いて恰好の肴にされたOL、コントとも詩ともつかない小品を書く若奥様、自称アララギ派の老紳士、まことに天下泰平である。
 私は、どうしてここへ来るのかと時に自問してみる。楽しいからか?それだけでもない?。
 狼は月明の夜に友を求めてなくという。孤独で淋しいからであろうか。断崖で月に向って狼が遠吠えするのは多分、様になっているであろう。而し孤独を孤独として認識出来るのは人間だけではないであろうか。
 人間に孤独の認識がなかったら果して文化が生れ得たであろうか。孤独からの出発が人間の、愛へ、叡知へ、やがて文化への眼ざめとなったのではないであろうか。
 だからと言って孤独を愛することは、孤独に馴染むことではない。独りになること、それが必らずしも孤独ではない。私はむしろ人はなかなか孤独になれないもので、束の間でもその瞬時を貴いと思う。
 邦楽の間。水墨画の余白。こういうものに孤独の片鱗。無限へのひらめき、未知へのつきせぬ想い。もろもろの余韻を感じるのは私だけであろうか?。

 さあれ私には孤独、憂愁、自由が、ときに心の銀河をよぎる光芒のように、そこはかとない生の証であるようにさえ思われるので、老き(老執)の霧氷の中に見失うことのないよう見守ってゆきたい。

 業平忌逢えないままに雨となり

 


卒業25周年記念アルバムより