4組 武川 祥作 |
一九七四年一月より七七年六月までのイラン勤務は、イラン国王失脚の前夜と言える。問題の三井のイランジャパンペトロケミカルのプロピレン消費先として、イランニッポンペトロケミカルが設立された。塩ビの可塑剤DOP製造の為である。おかしなことに、この会杜の名前からして紛らわしく、手紙の誤送が頻発して多大の不都合が生じたものである。一九七七年に力ーターが選出された時、イラン人に言ってやった。どうも力ーターは好かん。フォードが落選したのは不愉快だ、と。一介の知事、力ーターWHOが大統領になるとは、アメリカの民主主義の典型の様に言われたけれど、世の中そう甘くはない。 「Analyzing the Paralysis of Carter's Policy in Iran」 by Michael Ledeln and William Leurs がビジネスウィーク五月四日に紹介されているが正にパラリシス(身体障害)的大統領となっている。予言適中と言いたい処である。 御承知の通り石油の値上げ、所謂第一次石油ショックは七三年半ばから始まり、正に倍々ゲームの値上げが行われたわけであるが、これの首導を努めたのがイラン国王である。父王が革命により前王制を打倒して王位につき、第二次大戦中に、米国の手により追放された後、二十才の若さでかいらい政権を樹立させられて、元来性格的に弱い坊やが、非常に苦労を重ねたと言われている。以来米国の庇護の下で帝王学を勉強し、ペルシア湾の番兵を買って出たわけであるが、誇り高きイラン人にとって、米国は多分に不愉快な傘であったろう。イラン人の反米感情は根深いもので、三年半の在テヘラン中、新聞に出ていない、十指に近い米人殺人事件を耳にしているが、米国と似ても似つかない顔付では、何の危険もなく夜中の独り歩きが出来たものである。 それがいよいよ、オイルダラーという大金を獲て、有頂天になって、米国の傘から独立出来ると思い出したのである。武器は米国製、指導は米国人、しかし今やイニシアティブは我にありと思ったのだから君子豹変もいい処である。力ーターは、第一次オイルショック後もOPECで常に値上げの首謀者となっているイラン国王を何とか抑えようと説得にかかる。とんでもない。石油が上ればドルが手に入る。これでイランは米国の桎梏から逃れられる、と思っているのだから全く耳もかさない。しかしこれが国王の思い上りであり、又力ーターの思い違いであった。 イラン人は元来遊牧の民である。見渡して一木もない土のうねりの続く砂漠へ、数十頭の羊をつれて、悠々と落日の中に消えて行く姿は、正に自然そのもの、文化とは全く別の存在である。頼りになるのは自分だけ、ひとのことを気にする必要が元来ない。国王の存在は全く無縁である。有縁なのは、生活戒律としてのイスラム教であり、六〇%文盲の彼等にとって、イスラム僧は手紙の代筆者であり代読者であり、我が日本の八さん熊さんに対する大家さんである。そして僧侶は国王に服従したのではない。その背後にいる米国に服していたに過ぎない。国民の反米感情、それを抑えていた僧侶、その僧侶の隠れた力を怖れた国王の僧侶抑圧策、彼等の所有寺領の没収、民衆への開放、これが所謂ホワイトレボルーションと呼ばれる国王の自己革命であった。 しかし国王は、自分が僧侶を抑えていると思った。だから米国の石油価格に対する容隊を無視して、米国が国王支持を中止しても、武器もある、金もある、国王自身は安泰と思っていた。だから力ーターの要求を無視してOPECの石油値上げのリーダーを続けた。 力ーターは米国が手を抜いたら国王は国民を抑え得ないだろう。それを国王が少しも判っていないのだから思い知らせようと思った。それが米国のパラリシスである。そしてそれは又、イラン国王をパラリシスにしたことになった。 力ーターはこのイラン国王のパラリシスがどんなことになるか先を見ていなかった。イラン国民がどんな民族であるか判らなかった。米国の手による軍隊と、厳しい政治犯への重罰、そして僧侶えの圧迫、それで何とか近代国家の体裁をなしていたに過ぎない。 力ーターの人権外交に全く相反した政治のみがイランを今日まで支えて来た。それが力ーターには判らなかった。(在テヘラン日本人はみんな判っていた。) 暗愚な権力者が二人揃って、初めてこのイラン革命は成立した。どちらかが、もう少し先を見ていたら、オイルショックは相当異ったものであったろう。そして我々化学工業に従事しているものの苦しみは随分異ったものであったろう。 |