昭和十六年十二月八日、東京、京橋区役所で徴兵検査を受けた。
当日は、はりきって(?)早朝、区役所に行ったために、宣戦布告のニュースを聞いていなかったのである。検査前に検査官より『諸君に重大なる発表をする』と前おきがあり、かの『本日未明、帝国陸海軍は米英と戦斗状態に入れり』の話しがあり、その時の気持は、身のひきしまる緊張感とその半面『之はえらいことになった。みんな兵隊にとられるわい』という、率直なる感じが同居したものであり十二月八日をむかえるたびに何時も、この時の光景が鮮烈に思い出される。
さて小生は昭和十七年二月一日、島根県浜田市西部第三部隊に入営した。入営して知ったのであるが石原善二郎君、三宅駿一君、片山光夫君が他中隊にあり、心強く感じたものである。
初年兵当時は石原君の好意に甘えて石原開盛堂に日曜日には御伺いして御世話になったものである。今は亡き石原、三宅両氏の御冥福を祈るものなり。
さて小生は軍隊生活の中で東京商大とえにしがあった事を次に申し述べたい。小生も幸か不幸か幹候に合格して北支の保定幹部候補生隊に入隊し三中隊第一区隊に編入された。全部で五区隊であった。入隊して二、三日して助教の秋元見習士官から夜、部屋に来る様指示があり、何事ならんと行って見ると
『私は商大専門部を卒業した。御苦労ですが頑張って下さい』
とあり、なんと北支の保定で同学の士と会えた訳であり、秋元氏は我々より後輩であり、戦死されたと聞く。保定の幹部候補生隊の教育は六ヶ月間、行は水昭和十七年十一月頃、原隊である所の浜田、西部第三部隊に帰隊して第四中隊に見習士官として私を含めて四名が配属になった。四中隊長は山根大尉であった。同氏は現在、広島県三原市の酔心酒造株式会社の社長にして今尚御健在なり。山根中隊長より申告した夕方、中隊長室に来る様に命ぜられ、緊張して入室したところ
『君は東商大卒か。私しも商大卒なり、まあ頑張りたまえ。』
と激励があり、日曜日は自宅に来る様にとあり色々お世話になった思い出がある。全くめぐり合わせと云うべきか、不思議なえにしを感ずるものである。
ついで小生は、昭和十八年五月、開部隊第一三二大隊の一員として中支に派遣されたが中支では二度あることは三度とは参らず、商大にゆかりのある人には出合はなかった。
何れにしても同学ということで陰に陽に御かげを受けた軍隊生活の思い出である。又、社会人となってからは同学の先輩、同期の人々に御世話になって居る。
本年は卒業四〇周年、光いん正に矢の如しなり。諸兄の益々の御健勝を御祈りして拙い筆を終りたい。
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