戦争、敗戦、オイルショックなど正に激動の時代に遭遇した我々は、如何なる星の下に生れたものかと感慨に耽ることが少くない。
想えば、予科に入学したのは昭和十一年、二・二六事件が起きた年である。受験勉強中であった私は、入学試験が延期になるよう期待したが水泡に帰したのを恨めしく思ったことを記憶している程に、政治、社会問題には無関心な中学生であった。
予科の寮生活、ボート部のコックス、図書館通いなど若き日の青春の憶い出はあるが、今から振り返ると、最年少組の私には人生・社会の経験、知識が未熟であったため、空回わりした感じの悔の残る青春と思っている。三年の秋に、当時の青年病であった結核に罹って長期療養生活に入ったが、世の中は戦時体制に邁進していたので二年後退学した。当時は安静以外には療法のすべがなく、医者からは深刻癖に陥らないことと我慢忍耐することを厳しく諭されて、闘病というよりは病気との共存共生の生活を続けた。
「可惜青春を…」の見舞の言葉に焦躁の思いであったが、「諦めは言葉の帝王」との教えに運命を託して生きることに専念した。戦時下の召集、動員体制の中で無為に過すのは肩身の狭い思いであったが、風にゆらぐ蝋燭の焔のような危げな生命を庇い通して七年の月日を過ぎて漸く社会復帰するまでに回復した。これは勿論家族の支援によるものだが、他方、一つ一つの細胞に内在する生きんとする意思とその強い生命力の存在を身をもって感じとった。
戦後の二十一年に、今度は二十七才の最高年令の学生として再入学し、杉本ゼミに席を置いた。戦後の物資窮乏の時代であったが、戦時中の空白を一日も早く取戻すかのように、或いは言論思想の自由が一応許されたため一気に発散することになったと言うべきなのか、杉本先生の学問並びにゼミ指導に示された情熱・努力に私は「これがゼミだ」といたく感動した。ゼミは先生のお宅で、0・Bを交えながら日曜日に行われた。
国富論、資本論について白熱の討議が展開される知的雰囲気の中から、私等は学問・人生の厳しさ、楽しさを教えられたのである。残念ながら先生は五十一才の若さで急逝された。私は縁あって都留先生の読者会に加わり(お陰であの渾沌とした時代に、長き師長き友に恵まれた実のある第二の学生生活を過したことを感謝している。
結局のところ、私の商大生活は戦前戦後に亘ったわけだが、これも十九才の時の病気のためでありこれを境に私の人生航路も狭い道に限られて、何事も身体に相談する生活となった。「不思議に命ながらえて」という歌の一節は、全く事情は異なるのだが、私の情感に訴えるものがある。病気をテーマとした芹沢光治良氏の小説を愛読しているが、彼が引用したヴァレリーの「よく耐えて、時の力を恃むまで」を私の信条として今後ともマイペースで人生を歩んで行きたいと考えている。
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