5組 大野 正庸 |
小生は川越のもぐらである。もぐらをきめ込んでから丁度三年になる。石の上にも三年とか面壁九年などと言うが、小生の場合は何の目的意識もある訳ではなく、唯田舎にもぐり込んで時たま都会の風に吹かれるといった生活であり、とり立てゝ言う程の感懐もない毎日である。 一橋卒業四十年ということであるが、小生の場合は馬鹿気た道草を喰い、やっとの思いで学生々活と縁が切れたのは昭和二十年の敗戦の年の九月二十日のことである。そして学校の名前も東京商科大学とか一橋大学とか耳に快よいものではなく、訳の判らぬ東京産業大学というおかしなものに変っていた。という次第でいろんな意味で諸兄の感じられる四十年とは大分ズレていると思う。学校に籍は残されているものゝ或る時は学校の門をくぐり或る時は軍隊の門をくぐるという生活を繰返し、時の経過と共に国立の門を出たというに過ぎない。 このような訳で、あなたは一橋の御出身だそうでなどと言われると真実穴があったら入りたい気持にさせられたことが一再ならずあったというのが正直な告白である。にも拘らず幸なことには形だけではあるが一橋出身という唯一の理由で曲りなりにも世すぎを遂げることが出来たことは何はともあれ有難いことであった。然しその名目優待券は去る五十三年六月を以て返上してしまった。ということで器量優れず時利あらずというか残念乍ら四十年よくぞやったという晴れがましい或は意義深さを感じる境地にもない。 敗戦三十六年世情如何と眺むるに世は挙げて只管所謂エコノミックアニマル化の傾向は止むところを知らずその成果は人心の荒廃も甚しく、このことは日本人のみならず外国人からも厳しく指摘されていることは御承知の通りであり、今こそ教育の復興が希求される次第であるが、遺憾乍ら多くの教育機関は単なる営利事業に堕し去り、関係者は聖職者と言うには程遠いもので、言ってみれば衆愚の排泄機関とその作業員というのが実体ではあるまいか。 これにひきかえ、四十数年の昔、時代を風靡した風格あり有能な諸先輩の偉容を目のあたりにし、その謦咳に接することを得たことは誠に幸であった。そして又折に触れ時に臨んで耳朶を打つ国士的経済人或は和魂商才という言は合言葉にも似た言葉が、縦令一個のレトリックであったにせよ、雰囲気と相侯って若く純心な魂の誘導に如何に与って力があったことか。 伝統に輝く一橋よ。底力を持つ一橋よ。団結力を持つ一橋よ。独特な雰囲気のあった一橋よ。今こそ蕩々たる時流に流されることなく先輩・後輩相携えてその実力を発揮してほしいと願うや切なるものがある。 |