5組  酒井  襄

 

 年齢も六十路にかかると、毎日が追憶の生活になって来た。嘗てのバラ色も今はうすよごれた、枯れかけた花の色に過ぎない。今の若い人達のバラ色はやはり昔のバラ色と変らずに美しいのだろうかねえ。

 一

 あのジョン・ウエイン、又イランのパーレビ元国王がガンで死んだとのことである。この人達の斗病は肉体的には勿論のこと、精神的には余程強靱なものに支えられたものであったろう。日本では医者はガン患者には原則として真実の病名をおしえないという。欧米では本人におしえ、我国ではおしえないという違いは何だろうか。小さな少年少女が不治の病を得て、短い生命を両親、兄弟と共々精一杯生きようとする感激的な映画(外国の)も幾つか見たことがある。同じ人々の間に何でこの違いがあるのだろうか。やはり宗教と人の関係によるものと見ては間違いだろうか。生まれたときはお宮参りに行き、長じて教会で結婚式を挙げ、死して有難いお経によって成仏するという一つの型である。然も誰もおかしいとは思わない。
 ずい分前からの風習としてあったものの様だが、個人と宗教との結びつき、その生活との結びつきが、今ではどうしても強いものの様に見えないがどうだろうか。裁判で真実を申し上げますと宣誓の上の証言にやはり嘘が多いということである。証人個人は何に対して誓っているのだろうか。米国でも最近教会に行かない若者が増えているというけれども。やはり経済生活に対する大きな期待と、その圧迫がこうして了ったのだろうか。それでも宗教と経済生活のつながりを立派に解明した名著もあるのにねえ。

 神仏混淆、鎖国、廃仏棄釈、信仰の自由、と何だか我々と宗教との結びつきも意識的に結びつけられたり、断たれたりした結果だろうか。そして神も仏もあるものか、宗教性の希薄さを云々する声がよく聞かれる今日此頃である。半面米寿に近い私の母の毎日は、仏様に対するお参りから始まり、お参りによりその日が了る繰返えしであり、而もそれが当人にとっては現在最も充実した生活の様に見える。古い年寄は今でもその様な生活を身につけて来たままでいるのだろうか。そしてこれが本当に宗教と生活が結びついたものと云えるのだろうか。

 ある高名な高僧が医者からガンと聞かされ、その後の毎日の生活が非常に乱れたという話がある。医者は立派なお坊さん、さぞや悟り切るものと期待したのだろうが。今は僧職も文字通り一つの職業でしかないことの現れでもあろうか。
 他方に八十八ヶ所巡のお遍路さん、一所懸命お参りしている人も居るというのにねえ。

 二

 最近は余り見る機会がないけれども国内大小を問わず都市に行くと必ず××銀座と名付けた繁華街があった。今御本家の東京では、新しい中心がいくつもできて、以前の様に銀座だけではなくなったようではあるが、その様な街筋は勿論のこと、大小の国鉄、私鉄の駅前通りに致るまで、得体の知れない横文字の看板である。喫茶店、洋装店、洋菓子店は勿論、パチンコ屋に到るまで、なつかしい縦文字看板は見つけるのに骨を折る。そしてその一本裏通りに入ると、これはまた異なりともいうべく、国を間違えたかと思うばかりのアチラ文字ばかり。バー、スナック、時にはカタカナもあるけれども、概ね美しい横文字のネオンばかり。その中に縄ノレン、赤提灯を見つけたときは、ホッと懐しい想いが心をよぎる。
 野球でも「ダメ」「ヨシ」などと云わなければならなかった時代はついこの間の様に思えるのにねえ。

 新聞の折込広告を見ると、どこかの百貨店、失礼、デパートという様だが、オートクチュール、プレタポルテ、何か聞いたことのある様な、ないような言葉の隣に、「懐しい故郷の味即売会」とある。又おふくろの味で商売ができるという。嘗ては毎日飽きもせず食べていたものが、今は探し求めて食べに行かなければならない。家に帰えれば、マンション、パンション、ドムス、何とやらのお城の中で、おかみさん(今は何というのかな)がインスタント(即席といいましたねえ)料理の材料をつかって、和洋中何れかわからない様なお食事で、まず一杯、よく飼育された亭主、結構御満足なんじゃないかな。それともたまには飲屋のカラオケでガナルのも又オツなものというのだろうか。

 親がこの様になったためか、子供は最近足袋と草鮭の区別がつかないという。尤も現物を見る機会が殆んどない今の時代だものねえ。

 そのうちに、横文字で考え、横文字で話し、横文字で書かなければならないようになるのだろうか。その上、めくら、びっこ、ちんば、つんぼ、考えればたしかにいい言葉ではないが、つんぽ桟敷、めくらめっぼう、その他生活の中の言葉も禁句が増えれば、いよいよ縦文字はつかいにくくなるだろうに。

 三

「おばさん達は野菜の露地栽培はやっているのかね?」
「やってるよ。自分の家で食べる分は皆露地栽培だね。」
「それじゃ、うまいものは自分たちで食べ、まずいハウスものは他人に食わせるのかね〜」
「まあそうだね」
「この辺りは米は何俵ぐらい?」
「平年作で六俵ぐらいだね」(岐阜県で)
「自分一人で三町歩はできるね。それも一度も足を田の水の中に入れないでね。」
「そうさね、平年作で七俵かね。豊作で八俵ぐらい。こしひかりは茎が弱いので、沢山とれないね。」(新潟県で)

 米が余っているという。それでも「豊作貧乏」は死語の様に聞かれない。そしてシャンゼリゼーの大通りに「ノーキョー」の旗行列ができる。長塚節の「土」のおもかげはもうない。どの家もピカピカの新車が何台かある。何しろ登録のための車庫証明には事欠かない。おばさん、娘さん、皆パーマに、新しい型(ニューモードという)の服といった具合で、あのカスリにタスキがけ、手拭をかぶった姿は、人に見せるための田植祭りのショーでしか見られない。そういえば生活のうた、労働のうたであった民謡は、人に金をとって聞かせるうたになって了った。ただで聞けるのはノド自慢のときぐらいしかないのだろうか。

 どの農家も、うさぎの寝床に比べれば、むしろその何倍もの広さで、新しい設備に充された生活である様に見える。それでも北の方の国のように、農閑期に出稼ぎしなければならないところもあるようだ。何しろこの技術革新の世の中に、米は土地当り一・五倍にしかなっていないし、農業人口は二〇パーセントに下ったといっても、一人当たり五人分の食糧しか作っていないことになる。他方では、世界有数の食糧輸入国であるというのに。

 何年かに一度ひどい冷害がある。作柄が非常に落ちる。こればかりは昔と変らない。でも五十年前の暗さと悲惨さはない。上野駅前に当時口入屋が軒を並べていたことを思い出すけれども。

 四

 二十年振りに箱根の塔の沢に行った。そして二十五年振りに湯沢に行った。高山にも行った。どこにもその頃の面影は全くない。あるのは高層ビルのホテルばかり。高山は当時の静かな町のたたずまいはもうない。当時の生活の場所は総て見せるための場所になって了っている。

 別府にも行った。佐渡にも行った。皆同じだった。駒子の想出もなければ、浜の砂風呂もない。登別の名物男女混浴も今はないのかも知れない。

 そしてホテルの大広間の宴会には、焼魚は皿の上で鉄火箸でこげ目をつけ、お椀には、具を入れた上に農薬散布のときのような姿で、次々にチューチューと汁を入れて行く。出来上った料理は立派な宴会料理。まことに合理的そのものである。朝食は大食堂でバイキング。何か落付かない温泉宿の一日ではある。日本中どこに行っても同じ様になって了った。郷土色(ローカルカラーともいう)はどうしたのだろう。旅館でくつろぐなどは大変ぜいたくなのだろうか。

 「多様化したお客様に応ずるよう、充分に心掛けております」結果がこの一様化なのだろうか。
 あった。阿蘇の小さな温泉で。あれで非人情の彼女が居れば草枕の中の漱石も喜びそうな。今では余りきかない湯治場だった。山の料理、食事もうまい。何しろ大広間の宴会料理でもないし、バイキングでもない。小さい大正始めの建物という。でもねえ、こんなの運がいいのか、又探さなければないのかねえ。

 そういえば丸の内のどぶねずみ族。同じ服装で同じ時間に、同じ場所に。やはり個性を没却して了うのかなあ。毎日の繰返えしではねえ。そして家では隣の子が塾に行けばうちの子も。ピアノを買って貰えばうちの子も。自動車を買えばうちの子も。そして皆同じ型に育てられて行く。

 何だか変だねえ。この辺りでやめておきましょうか。